日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)は島根県出雲市の日御碕に鎮座する神社。通称、みさきさん。出雲大社の「祖神(おやがみ)さま」として崇敬を集める。社殿12棟などが国の重要文化財に指定されている。
当社は、上下の2社あり、上の宮を神の宮、下の宮を、日沈宮(ひしずみのみや、日沉の宮)と称し、2社を総称し日御碕神社(日御碕大神宮)と呼ばれる。古くは『出雲国風土記』に美佐伎社、『延喜式』に御碕社とあり、地元では「みさきさん」とよばれる[2]。
社伝によると、素盞鳴尊は出雲の国造りの後、熊成峰[注 1]に登り、鎮まる地を求めて、柏葉を風で占うと隠ヶ丘[注 2]に止まった。そこで御子・天葺根命は御魂をその地で奉斎したと伝わり、隠ヶ丘(古墳)が現・社殿の裏側にある。日沈宮は元は文島(現・経島)に鎮座し、天葺根命が文島にいたとき、天照大神が降臨し、「我天下の蒼生(国民)を恵まむ、汝速かに我を祀れ」との神勅によって奉斎したのが始まりと伝わる。
平安時代末期に後白河上皇が編纂した『梁塵秘抄』に「聖の住所(すみか)」として記される修験の聖地である[3]。神の宮(上の宮)は、現・社殿の背後にある隠ヶ丘に鎮座していたが、安寧天皇13年(紀元前536年)に、勅命により現在地へ遷座し、日沈宮(下の宮)は、経島(日置島)に鎮座していたが、天暦2年(948年)に村上天皇の勅命により現在地に遷座したと伝わる[2][3]。
古くから朝廷からの崇敬が厚く、鎌倉時代以降も幕府からの崇敬があり、社殿の修造が行われている。出雲国松江藩初代・堀尾忠氏は、社領780石余を与え、徳川幕府も600石を与えている。山陰において出雲大社に継ぐ大社とされる。
日沉宮、神の宮の現・社殿は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の命で、松江藩主・京極忠高により、日光東照宮完成直後の寛永11年(1634年)に造営が始まり、寛永21年(1644年)松平直政の代で竣工する[2]。以降、歴代藩主により崇敬される。両宮とも日光東照宮を模した権現造りである[2]。三猿や龍の彫刻も日光東照宮と瓜二つである。
明治4年に、国幣小社に列する。
「日沈の宮」の名前の由来は、創建の由緒が、伊勢神宮が「日の本の昼を守る」のに対し、日御碕神社は「日の本の夜を守れ」 との「勅命」を受けた神社であることによる[5]。
日沉宮、神の宮、楼門、回廊、禊所、宝庫、門客人社など12棟の社殿や鳥居2基、石灯篭5基が国の重要文化財に指定されている。
以下の祭神を祀る。
- 日沈宮(下の宮)
- 主祭神
- 配祀神
- 神の宮(上の宮)
- 主祭神
- 配祀神
※以下(重文):国の重要文化財のこと。
- 楼門が見える位置に御影石造鳥居があるが、元は、かつての参道入口の宇龍(出雲市大社町)にあったが、1935年(昭和10年)に現在地に遷された。移転の際に銘文が見つかり、寛永16年(1639年)に徳川家光寄進と判明。神社西にある清江の浜の入口にある鳥居も、家光寄進[3]。
- 手水舎
- 社務所
- 楼門:(重文)
- 回廊:(重文)
- 石燈籠:(重文)
- 禊所:(重文)
- 宝庫:(重文)
- 神紋石舎
鳥居(宇龍から移設)
下の宮 回廊
下の宮 禊所
宝庫
- 日沈宮(下の宮):(重文)
- 境内からすぐの清江の浜の前の経島(日置島)に鎮座していた「百伎槐社」が、村上天皇の勅により、天暦2年(948年)に現在地に遷座と伝わる。内部は、上段と下段の間に分かれ、古文書によると上段の間は、「神楽所」と呼ばれていたとされる[3]。
- 神の宮(上の宮):(重文)
- 現・社殿背後にある隠ヶ丘に祀られていたが、安寧天皇13年に現在地に遷座したと伝わる[3]。
摂末社
- 門客人社(かどまろうどしゃ):(重文)
- 楼門入ってすぐの日沈宮(下の宮)社殿に向かって左側(南側)に鎮座。
- 門客人社(かどまろうどしゃ):(重文)
- 楼門入ってすぐの日沈宮(下の宮)社殿に向かって右側(北側)に鎮座。
- 蛭児社
- 十九社摂末社
- 日和碕神社
- 秘臺神社
- 曾能若媛神社
- 大山祇神社
- 意保美神社
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- 荒魂神社
- 荒祭宮
- 御井神社
- 稲荷神社
- 韓國神社
- 宗像神社
境外社
- 経島神社(元宮)
- 経島(日置島)にあり、日沈宮(下の宮)が初めに鎮座していた場所で、現在小さな祠がある。
国宝
- 工芸品
- 白絲威鎧(しろいとおどしよろい) 兜・大袖付 1領 - 1953年(昭和28年)3月31日指定[6]。
- 鎌倉時代作。胴高:63.6センチメートル、兜鉢高:11.2センチメートル、大袖高:39.4センチメートル[6]。江戸時代には、源頼朝奉納の甲冑として知られていた。幕末には威糸(おどしいと)などの痛みが激しく、文化2年(1805年)、松江藩主・松平治郷の命により、江戸で、元の姿を損なうこと無く現状の形に補修されている。その際、破損部分の繕いに「文化二年修補」の文字を染めた白韋(しろかわ)が用いられ、取り外された威糸や紐などの残欠類は保管されている。修理を担当した寺本安宅により61箇条の修理記録「源頼朝卿御鎧修補註文」が記されている[7]。東京国立博物館寄託(塩冶高貞寄進)。
重要文化財
- 建造物
- 日御碕神社 12棟、2基 - 1953年(昭和28年)3月31日指定。
- 寛永21年(1644年)築。徳川家光の命により建立。
- 以下、附指定物件[8]。
- 日御碕御建立絵彩色塗金物 1冊
- 出雲国日御碕御造営銀子請取同入用高帳 1冊
- 日御碕社殿地割図 19枚
- 日御碕社殿の図 1巻
- 石燈籠 5基
- 工芸品
- 藍韋威腹巻(あいかわおどしはらまき) - 1953年(昭和28年)3月31日指定[22]。
- 南北朝時代作。東京国立博物館寄託。(名和長年寄進)※「腹巻」は鎧の一種。
国の天然記念物
- 経島ウミネコ繁殖地 - 1922年(大正11年)3月8日指定[23]。
- 日沈宮(下の宮)の元・鎮座地で日御碕神社所有の経島(管理:出雲市)。日本海西部における代表的ウミネコ繁殖地。
県指定文化財
- 工芸品
- 鉄砲(清堯作) 附:銃箱及び関係文書 - 1962年(昭和37年)6月12日指定[24]。
- 慶長17年(1612年)造
- 縹糸威肩白四十八間筋兜 1頭 附:鳩尾板 1枚 - 1969年(昭和44年)5月23日指定[24]。
- 室町時代初期
- 熏韋威喉輪 1懸 - 1969年(昭和44年)5月23日指定[24]。
- 南北朝期
- 白糸威肩紅喉輪 1懸 - 1969年(昭和44年)5月23日指定[24]。
- 室町時代末期
- 越前康継作大小刀、梨地大小太刀拵 2口1組 附:「出雲國日御碕太神宮正殿御遷宮次第事」1巻 - 1996年(平成8年)4月26日指定[24]。
- 書跡
- 紙本墨書耕雲明魏日御碕社造営勧進記 1巻 - 1969年(昭和44年)5月23日指定[25]。
- 応永27年(1420年)
- 紙本墨書日御碕神社勧化簿 2帖 - 1975年(昭和50年)8月12日指定[25]。
- 大永4年(1524年)頃作
- 典籍
- 出雲国風土記(日御碕神社本) 1冊 - 1961年(昭和36年)6月13日指定[26]。
- 寛永11年(1634年)紀州家寄進
- 重要美術品
- 刀 銘:奉納出雲国日御碕霊神 小野繁慶 1口 - 1940年(昭和15年)2月13日指定[27]。
- 江戸時代初期
- 注釈
現・天狗山。島根県八束郡八雲村と能義郡広瀬町との境界にあり、かつて熊野(くまぬ)山とも呼ばれ、「出雲風土記」には、「熊野山。所謂熊野大神の社坐す」と記され、山頂近くには、熊野大社の元宮で、熊野大神が鎮まっていた巨大な磐座がある。
- 脚注
“【重要美術品】”. 島根県教育庁文化財課. 2022年7月27日閲覧。
- 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、49頁
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