押使
古代日本の官職 ウィキペディアから
押使(おうし/すべつかい)は、遣唐使において、使節団の規模が並外れて大きい場合、本来の指導者である大使の上に置かれ、使節団全体を統轄する官職。「押」は「惣(す)べる」という意味。
概要
『日本書紀』巻第二十五、孝徳天皇白雉5年(653年)2月には、
とある。玄理は過去に推古天皇16年(608年)に遣隋使留学生として大陸に渡っており[1] 、大化2年(646年)には新羅に派遣され、任那の調の停止と新羅からの人質の交渉に成功しており[2] 、それらの実績を評価されたのであろう。この時の遣唐大使は河辺麻呂で、玄理は唐に滞在中に亡くなっている[3]。
『続日本紀』巻第七、元正天皇の霊亀2年8月(716年)には、
とある。県守は八色の姓最高位の真人姓を持ち、宣化天皇の血を引いている。なお、この時の遣唐副使は藤原宇合である[4]。
日本の押使と直接的な関連はないと見られるが、『新唐書』巻第二百十九「北狄列伝」によれば当時の契丹には「押蕃落使」「押奚契丹使」などの官職がある。
脚注
参考文献
関連項目
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