手力雄神社 (岐阜市)
岐阜市にある神社 ウィキペディアから
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手力雄神社(てぢからおじんじゃ[1])は、岐阜県岐阜市にある神社である。
式内社の美濃国厚見郡比奈守神社とされているが、同じ岐阜市内の比奈守神社の説がある。現在の「比奈守神社」は明治元年「飛騨守神社」が改名したもの。新撰美濃誌には「比奈守神社今手力雄神社といふ」とある。
寺伝によると貞観2年(860年)に鎮座したと伝えられる[2][3]。弘治年間には斉藤氏の祈願所になる。
中世には長森が戦略上の要所であることから、度々戦火に見舞われた。木曽川渡河点は手力雄神社鎮座地以外に無く、尾張以東の東海道の軍勢が京に上るには、この場所で木曽川を渡るしかなかった。従って信長父子は数次に亘って当所を攻めたが、湿地帯であることから大兵を用いることができず、断念。墨俣で陽動作戦を行う一方、鵜沼、前渡の川並衆を調略し、舟で各務原に渡った。信長公記には「新加納に布陣した。」とある。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い(前哨戦の米野の戦い)に際しては付近の一帯が戦場となったため境内一帯をほぼ焼失[2]。境内地から数百メートル離れた鳥居だけが残り、そこに掲げられていた「古額」が宝物として保存されることになった[2]。
元和2年(1616年)に本殿、元和6年(1620年)に幣殿、元和9年(1623年)に幣殿拝殿が再建された[3]。幣殿と拝殿は明治13年(1880年)に、本殿は明治18年(1885年)に再度造営され[4]、本殿はこの造営のさい流造から神明造に変更されている[5]。なお、境内地は明治の地租改正の時に確定した[2]。
現在の社殿は流造であり、平成18年(2006年)4月16日に着工され、平成20年(2008年)3月29日に竣工。同年3月30日に竣工奉祝祭が行われた[6]。尚、境内の手水舎は大正14年(1925年)に建てられたものである[2]。
春の大祭は、火薬や花火を仕込んだ神輿を裸男が担ぎ、火の粉を浴びつつ境内を練り歩く豪壮なもので「火祭」として著名。300年余の歴史を誇り(火祭の神事は、昭和34年まで秋の大祭の一環として行われていた)、岐阜県の重要無形民俗文化財に指定されている[8]。
その他、毎年8月第2日曜日には、岐阜市観光コンベンション課により「長良川水と火の祭典.手力の火祭・夏」が長良川河川敷で開催されている。迫力は本祭さながらである。
各務原市の那加手力雄神社の祭神の天手力雄神は、戸隠神社の影響が強いといわれている。事実、本殿の軒に龍の彫刻があり、龍に関わる話が伝わっているが、これは戸隠神社の九頭竜社の影響という。
岐阜市の手力雄神社は、貞観2年(860年)、朝廷の宮中の祭神を分祀したもので、元々の祭神は伊勢神宮の天手力雄神であるという。手力雄神社は長森13ヶ村の郷社であり、那加手力雄神社は那加13ヶ村の郷社である。
両社は距離も近く混同されやすい。両社では間違えないように呼びかけている[10]。
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