向日神社
式内社 ウィキペディアから
式内社 ウィキペディアから
向日神社(むこうじんじゃ)は、京都府向日市向日町北山にある神社。向日明神とも呼ばれる。式内社(名神大社・小社)で、旧社格は府社。
元々は、同じ向日山に鎮座する「向神社」(上ノ社)、「火雷神社」(下ノ社)という別の神社だった。いずれも延喜式神名帳に現れる古社で、「火雷神社」については名神大社「乙訓坐火雷神社(乙訓神社)」の論社である(他の論社は長岡京市の角宮神社)。
向神社は御歳神(向日神)が向日山にとどまり、稲作を奨励したことに始まるというが、そもそもは現在地から北に500メートルの所にある五塚原古墳(いつかはらこふん)の上に祀られていたようである。養老2年(718年)になって元稲荷古墳の南側にある現在地に遷座した。
火雷神社は神武天皇が大和国橿原から山背国へ遷った際、当地に火雷神を祀ったことに始まると伝えるが、継体天皇が乙訓宮を造った継体天皇12年(518年)頃の創建ともされる。また、火雷神社は養老2年(718年)の社殿新築にあたり玉依姫命と神武天皇を合祀している。
延暦3年(784年)に長岡京が作られて遷都されたが、その中心となる長岡宮は向神社の東の麓に作られた。
火雷神社宮司は承久3年(1221年)の承久の乱の際に後鳥羽上皇側について敗れると、現在の京都府福知山市にあった荘園「六人部荘(むとべのしょう)」に隠れ、許されて戻った時には衰微していた。こうして建治元年(1275年)には向神社が火雷神社を併祭することとなり、向日神社と社名を改めて付近一帯の総鎮守となった。
応永29年(1422年)に7つの村が協力して本殿(重要文化財)を再建している。当地はかつて西岡(にしのおか)と呼ばれていたが、土一揆が行われる際には当社で集結してから京都に向かっている。
当社が建っている丘陵は、1961年(昭和36年)に名神高速道路建設のための土を取ったため、かなり削られ、向日神社と元稲荷古墳がある部分だけが小山になって残った。近隣に笹部新太郎の桜苗園がありこれも取り壊されたが、近年になり神社周辺に桜の園として復元されている。
東京の明治神宮の本殿は当社の本殿がモデルとなっており、当社本殿の1.5倍のスケールに拡大した設計となっている。
境内の南には向日市天文館がある。
京都府道67号西京高槻線(アストロ通り)から、長い石畳の参道に入る。参道は桜・ツツジ・カエデ等の並木が連なる緩やかな登り坂で情緒があるが、自動車も走るので注意が必要である。
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