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強風(きょうふう)は川西航空機が太平洋戦争時に開発した日本海軍の水上戦闘機である。略符号はN1K1、連合国側のコードネームはRexであった。主任設計技師は二式飛行艇も手がけた菊原静男。
川西 N1K1 強風
本機は水上機でありながら空戦を主目的とした機体として設計されたが、開発が難航したことで活躍の時期を失い、性能も期待外れで操縦も難しかったことから、生産数は100機に満たない。本機登場までのつなぎとして、零戦を水上機化した二式水上戦闘機が開発されたが、こちらの方が生産数も多くそれなりに戦果も残している。
しかしながら、のちに本機をベースに改設計して開発された局地戦闘機(陸上機)の「紫電」は、大戦末期に日本本土に襲来したB-29や米航空母艦艦載機の迎撃に投入され、本土防空戦の遂行に大きな役割を果たすこととなる。
日本海軍は支那事変時に九五式水上偵察機を要撃機や攻撃機の代わりに使用した実績から、南洋諸島に侵攻した際の飛行場完成までの制空権確保および空母艦載機の不足の補填を目的として本格的な水上戦闘機の開発を1940年(昭和15年)に決定した。第一次世界大戦以前は水上機が中心となって戦闘任務を行うことも珍しくなかったが、第二次世界大戦頃には観測や偵察任務用の機体がほとんどであり、本格的な空戦を行える水上機の開発は当時の日本の事情を反映したユニークなものであった[注釈 1]。
1940年9月、海軍は水上機の開発経験が豊富な川西に十五試水上戦闘機として本機の試作指示を行った。試作指示書に示された要求仕様の概要は以下のとおりである。
この仕様を当時ちょうど実用化された零戦一一型と比較した場合、速度で30ノット(56km/h)以上上回り、航続距離で3分の2、武装で同等以上となる。簡単に言えば新鋭主力戦闘機と同じ性能の水上機を作る事を要求されており、特に速度の要求は水上機に求められるものとしてはほぼ実現不可能と言うべきものであった(同時期に開発が行われていた雷電の原型機(J2M1)の最高速度でさえ578km/hである)。結果的に完成した機体の最高速度は要求を100km/h近く下回ってしまうが、川西の菊原静男技師を中心とする開発陣では後述するような技術的努力を行い、要求を満たすべく意欲的に開発に取り組んだ。なお本機の開発は難航が予想されたため、そのつなぎ的な意味合いで零戦一一型を基にした二式水上戦闘機が中島飛行機によって開発・生産され、太平洋戦争緒戦で活躍することになった。
川西は海軍の要求仕様に応えるため、前年に試作指示された水上偵察機である紫雲同様の各種新基軸を取り入れた。以下に機体各部ごとにその特徴を説明する。
海軍航空技術廠飛行機部が、1942年(昭和17年)12月から1943年(昭和18年)2月まで、空戦フラップによる実験を行っている。データは活動写真経緯儀により飛行の経緯を記録し、自記加速度計を併用して得られた。実験高度は2,000mである。実験時の強風の重量は3,500kg、翼面荷重は148.9kg/平方mである。空戦フラップを用いると、旋回半径が通常の70% - 80%へ減少した。このとき旋回時間の減少は見られなかった。宙返りに関しては直径が減少し、宙返りに要する時間も減少した。
強風が148ノットで進入し、旋回した際、荷重は3.3Gかかり、旋回半径は180m、時間は15.5秒を要した。これに対し、151ノットで進入し、19度でフラップを効かせた場合、荷重は4.1G、半径は140m、時間は14.5秒であった。
旋回半径 | ||||
---|---|---|---|---|
フラップ使用(19度) | 進入速度 | 翼面荷重 | 旋回半径 | 旋回時間 |
なし | 148ノット | 3.3G | 180m | 15.5秒 |
有り | 151ノット | 4.1G | 140m | 14.5秒 |
同様にして宙返りを計測した。
190.5ノットで進入しフラップを用いなかった場合、宙返り直径は305m、最大荷重3.4Gであった。宙返りの頂点までに11秒かかり、速度は105.4ノット、荷重1.65G、高度差は437m(進入した地点から)である。また宙返り終了に要した時間は23秒、高度差は-111m(進入した地点から)、速度は184.5ノットであった。
これに対し、189.4ノットで進入しフラップを19度で行った場合、宙返り直径は250m、最大荷重4.0Gとなった。宙返りの頂点までに9.5秒、高度差398m(進入地点から)、速度は95.5ノット、荷重は2.0Gである。また宙返り終了に要した時間は17.5秒、高度差は95m(進入地点から)、速度は142ノットであった。
使用時と不使用時では高度差が200m生じ、また空戦フラップ使用時の速度低下はかなり大きかった[7]。
宙返り | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
フラップ使用(19度) | 進入速度 | 宙返り直径 | 最大荷重 | 頂点到達時間 | 頂点速度 | 頂点荷重 | 開始→ 頂点高度差 | 終了時間 | 開始→ 終了高度差 | 終了速度 | |
なし | 190.5ノット | 305m | 3.4G | 11秒 | 105.4ノット | 1.65G | 437m | 23秒 | -111m | 184.5ノット | |
有り | 189.4ノット | 250m | 4.0G | 9.5秒 | 95.5ノット | 2.0G | 398m | 17.5秒 | 95m | 142ノット |
1943年12月21日に強風は制式採用されたが、既にその時期にはソロモン方面の戦いはアメリカ軍の勝利で決着し、日本は絶対国防圏の死守を唱えて守勢に回っており、島嶼部での侵攻を目的に開発された本機の活躍の場はほとんど消滅していた。そのような状況ではあったが、制式採用と同時に強風はインドネシアのアンボン島やマレー半島西岸沖のペナン島に展開していた水上機部隊に配備され、少数ではあるもののB-24やその哨戒機型のPB4YおよびB-29の撃墜破を報告している。対爆撃機戦闘の際は時限起爆式の30kg爆弾を敵機上方から投下しその爆発によりダメージを与えるという戦法を採ることが多かったようである。一方、日本本土では佐世保航空隊や大津航空隊(琵琶湖)に配備されて防空任務についていたが、戦績はほとんど皆無であった[8]。そのほか菊水一号作戦の直掩などにも使用された[9]。
なお1945年2月16日、千葉県館山沖で1機の強風が零式艦上戦闘機と交戦中のF6Fに横槍を入れるかたちで戦闘に突入、格闘戦の末、1機の撃破を報告している。これは強風が敵戦闘機に対して挙げた唯一の戦果であるという[10]。
結局本機は登場時期を逸し、本来つなぎ的存在であったはずの二式水上戦闘機の方が活躍するという結果に終わってしまった。しかし、このような事情があったからこそ強風は紫電の母体となったとも言える。当時の海軍も強風が時局に見合わない存在であることを見抜いていたので発注数は予定より大幅に削減されたが、それは川西に事業の不振を懸念させ、本機を陸上機化した紫電の開発を促すことになった。紫電は層流翼や自動空戦フラップといった本機の特徴を受け継ぎ、大戦末期に最後の奮戦を見せることになる。
強風の生産は川西のみが行い、総生産数は試作機を含めて97機であった。この内31機程が終戦時に残存していた。なお生産された全ての機体は強風一一型に分類されるが、紫電二一型を水上機としてフィードバックした強風二二型という派生型の開発計画があったとされている。
強風は戦後に性能テストのため4機がアメリカに輸送されたが、そのうちの3機はほぼ全部品が揃った状態でアメリカに現存している。2015年5月現在の状態は以下の通り。
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