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大相撲の行司 (1927-2005) ウィキペディアから
26代 式守 伊之助(にじゅうろくだい しきもり いのすけ、1927年10月22日 - 1994年3月31日)は、大相撲の立行司の一人。式守伊之助としての在位期間は1991年1月 - 1992年9月。春日野部屋所属。
1941年、13歳で春日野部屋に入門。1年先輩に木村英三(後の27代伊之助)がおり、入門当時は英三から教育を受ける。同年5月に木村宗市の名で初土俵。1944年に肋膜炎を患い一旦は故郷に戻るも、1946年に兄弟子の元三役格13代木村庄太郎の取り計らいで復帰。その後6代木村庄次郎襲名。一旦は木村宗市に戻し1956年5月十両格。再び木村庄次郎を再襲名後木村庄二郎に改名し、1963年11月に幕内格。幕内格時代(1982年11月場所ー1984年11月場所)に戦後4人目の番付書きを担当。1985年1月に7代式守勘太夫を抜き三役格に昇格。
1991年1月、立行司に昇格、26代式守伊之助を襲名した。
立行司の在位期間は11場所(死跡1場所のみであった14代伊之助を除けば当時の最短記録)と短かった。2歳年上の27代庄之助、1歳年下だが入門が3年早い28代庄之助が共に行司抜擢制度の適用で若くして立行司となり、かつ停年まで全うしたことが影響している。しかも28代庄之助の襲名時には三役格の最上位に1歳年下の兄弟子・27代伊之助(当時は木村庄太郎)が健在で、庄二郎との比較でも甲乙付け難く、序列通りなら庄太郎が伊之助を襲名するところだったが、庄太郎の「庄二郎に譲る」という意向を尊重して庄二郎が伊之助を襲名した経緯がある。
故横綱千代の富士が引退を決意するきっかけになった、1991年(平成3年)5月場所初日の前頭筆頭貴花田(後の貴乃花)戦、3日目の現役最後の一番(対小結貴闘力戦)、霧島(現陸奥)と曙が初優勝を決めた取組といった平成初期の大相撲名勝負を裁いた。1992年9月場所後停年。最後の取組は、大関曙-関脇安芸ノ島(現高田川)戦。
停年後は、準レギュラーとしてTBS系報道・情報番組「ブロードキャスター」に出演していたほか、講演活動、更には、自宅で喫茶店のマスターとして活動していた。
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