広橋公寿

日本のプロ野球選手、コーチ (1957-) ウィキペディアから

広橋 公寿(ひろはし こうじゅ、1957年1月11日 - )は、福岡県宗像郡玄海町(現在の宗像市)出身[1]の元プロ野球選手内野手外野手)、野球指導者。

概要 基本情報, 国籍 ...
広橋 公寿
基本情報
国籍 日本
出身地 福岡県宗像郡玄海町(現:宗像市
生年月日 (1957-01-11) 1957年1月11日(68歳)
身長
体重
181 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手外野手
プロ入り 1980年 ドラフト外
初出場 1981年4月4日
最終出場 1991年6月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
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東北楽天ゴールデンイーグルス創設期のコーチ陣の1人で、2022年から青山東京ボーイズの監督を務める[2][3]

長男は2005年四国アイランドリーグ第1期生として、高知ファイティングドッグスへ1年間在籍していた広橋貴寿[4]。自身と同じく楽天球団の創設メンバーで、元プロ野球選手の岩隈久志は義理の息子(長女の夫)にあたる[5]

経歴

要約
視点

選手時代

東海大五高から八幡大学に進学。九州六大学リーグでは在学中3度優勝。投手としてベストナイン2回。

大学卒業後は、社会人野球東芝に入社。1979年から2年連続で都市対抗野球に出場し、リードオフマンとして活躍する。東芝のチームメートに黒紙義弘菊地恭一らがいた。

1980年オフに、ドラフト外西武ライオンズへ入団。同期のドラフト外入団に秋山幸二がいる。

1年目の1981年から一軍に定着。開幕直後から行沢久隆三塁手のレギュラーを争い、同年は44試合に先発出場。翌年からスティーブ・オンティベロスが三塁に回ったため、外野手も兼ね、ユーティリティプレイヤーとして長く活躍した。左投手にはめっぽう強く、しぶとい打撃で、西岡良洋と共に左キラーとして当時の監督広岡達朗に重宝される。

1983年読売ジャイアンツとの日本シリーズでは、俊足を活かし代走として4試合、代打で1試合に出場。1984年にはシーズン中盤から一番打者に起用され、50試合に先発出場、打率.296の好成績を残す。1985年には規定打席不足ながら打率.301をマークしている。同年の阪神タイガースとの日本シリーズでは代打、守備固めとして3試合に出場。第4戦では9回表に勝ち越しの導火線となる安打を放っている。1986年には故障もあって後半戦を棒に振り、その後は代打、指名打者としての起用が主となった。

1989年オフ、宮下昌己大宮龍男との交換トレードで小川宗直と共に中日ドラゴンズへ移籍。1990年オフ、小早川幸二との交換トレードで、地元福岡ダイエーホークスに移籍。1991年限りで現役引退。

現役引退後

福岡県内のゴルフ場に勤務するかたわら、九州地区からの中継限定で文化放送の野球解説者を務めた。1995年から2003年まで、西武で守備走塁コーチや打撃コーチを歴任。2004年には、テレビ埼玉野球解説者・西日本スポーツ野球評論家として活動した。

広橋の能力を買っていた西武時代の同僚の監督・田尾安志の招聘で[6]東北楽天ゴールデンイーグルスNPBに参入した2005年に、同球団の一軍外野守備走塁コーチへ就任。シーズン途中からは、一軍打撃コーチから二軍打撃コーチへ降格した駒田徳広に代わって、一軍打撃コーチを務めた。2006年から二軍打撃コーチ、2008年から二軍外野守備走塁コーチ、2011年には二軍育成チーフコーチ(5月16日以降は二軍打撃コーチ)を担当。2010年7月には、当時の二軍監督・仁村徹の病気療養を受けて、二軍監督代行を務めた。2012年には育成チーフコーチを担当したが、シーズン終了後にコーチ契約を行わない旨を伝えられた[7][8]。広橋の退団によって、楽天球団創設時点での監督・コーチ陣は全員が退任した。

2013年には、韓国フューチャーズリーグに参加していた高陽ワンダーズで打撃コーチを担当。

2014年に楽天球団へ復帰すると、「楽天イーグルス ベースボールスクール」(楽天球団が運営する少年野球教室)のコーチ(ジュニア部門統括担当)を務めた[9]。さらに、楽天球団が同年12月7日に「東北楽天リトルシニア」(NPB加盟球団が初めて保有・運営するリトルシニアチーム)を設立させたことを受けて、2015年から総監督を兼務していた[10]。その後は楽天球団がバックアップしているクラーク記念国際高等学校仙台キャンパスの女子硬式野球部のヘッドコーチを兼任した[11][12]2019年限りで、楽天球団を再び退団。

2020年からは、エイジェック女子硬式野球部ヴィーナスリーグの3部に加盟するチーム)で監督を務める[13]2021年は1年間で日本一4回を達成し[14]、当年限りで退任[15]

2022年からは岩隈久志が創設した「青山東京ボーイズ」で監督を務める[2][3]

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
















































O
P
S
1981 西武 91180162234482262128390801234.272.310.383.693
1982 641921692845923671465301901161.266.344.396.740
1983 8311293232260028433701002141.237.324.301.625
1984 7620016936501003691752632101182.296.377.408.785
1985 8214312316371411561711621220171.301.358.455.813
1986 2222205400042211010040.200.238.200.438
1987 591069618314114017215050090.323.356.417.773
1988 508074121800327124130300102.243.273.365.638
1989 913101000000001020010.000.167.000.167
1990 中日 1826243500181112000070.208.208.333.542
1991 ダイエー 1513113200020000020040.182.308.182.490
通算:11年 569108795116825851614363963218435832512311.271.331.382.713
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記録

背番号

  • 30 (1981年 - 1989年)
  • 25 (1990年)
  • 68 (1991年)
  • 85 (1995年 - 2003年、2005年 - 2013年)

関連情報

出演番組

脚注

関連項目

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