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スティーブ・オンティベロス (内野手)
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スティーブン・ロバート・オンティベロス(Steven Robert "Steve" Ontiveros , 1951年10月26日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州出身の元プロ野球選手(内野手)。右投両打。日本プロ野球 (NPB) での登録名は「スティーブ」。
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経歴
要約
視点
1969年のMLBドラフト6巡目(全体の136番目)でサンフランシスコ・ジャイアンツに指名され契約。1973年、メジャー初昇格。1977年、シカゴ・カブスに移籍。
1980年6月25日、西武ライオンズへの入団が発表される[1]。契約は3年、推定年俸6千万円という当時の球界では破格の厚遇であった[2]。スティーブは前年にカブスにて5番、6番を務めた現役のメジャーリーガーで年齢も選手の全盛期とされる29歳であり、2A、3Aなどのアメリカ球界のマイナー・リーガーやメジャーで実績を残しながらも全盛期を過ぎた選手が主流だった当時の外国人選手としては異例の大物選手であった[2]。西武は前期は開幕から下位に低迷し、その一因としてこの年入団したテーラー・ダンカンが攻守で精彩を欠いた事がチーム内で挙げられたため[2]、取締役の中村芳夫がアメリカに渡りダンカンに代わる外国人選手を探していた[2]。その結果、シカゴ・カブスとの間で正三塁手のスティーブの譲渡で合意したのだった[2]。
7月1日に来日し、4日からの後期の開幕から出場。開幕カードとなった4日の近鉄バファローズ1回戦に三番・三塁で先発出場したが、鈴木啓示の前に4打数0安打2三振に終わり、「スズキは大リーグにもいないほどコントロールのいい投手だ。両コーナーをゆさぶられてしまった。ストライクゾーンの違いにも戸惑った」と脱帽した[3]。しかし翌5日の近鉄2回戦では、1回裏の第一打席で先発の左腕・村田辰美から右打席で初安打を記録すると、4回三遊間、5回中前安打で4打数3安打、守備では三回表に永尾泰憲の三塁線への打球をダイビングキャッチして矢のような一塁へ投げ三塁ゴロに打ち取る美技と攻守両面で活躍した[4]。これで波に乗ると後期は打率.314、16本塁打、50打点の好成績を残し、チームも後期は前期の低迷から一転して7月15日に西武球団として初の首位に立つ[5]など、閉幕間際まで優勝争いを演じて躍進した[6]。
スティーブの活躍とチームの後期の躍進を見てオーナーの堤義明は、さらなる大物選手の獲得をフロントに指令し、サンフランシスコ・ジャイアンツのテリー・ウィットフィールドを翌1981年に獲得することになる[7]。
在籍6年間で5度の打率3割をマークし、1982年の西武初優勝時にはテリーと共に多大な貢献をした。
口髭に禿げ頭がトレードマークで、カブス時代は鬘のテレビCMに出演した事もある。鬘はプレー中には使用せず、移動の際に装着し別人のようになっていた。
西武時代には3回退場処分を受けた。1982年7月13日の日本ハム(後楽園球場)で大宮龍男につかみかかり退場、1983年6月5日の試合では投げたバットが球審の村越茶美雄にあたり退場、1984年8月22日の日本ハム戦では大宮龍男と殴り合いをして大宮と共に退場処分を受けた。西武ライオンズの選手で初めて退場処分を受けたのはスティーブである[8]。阪急西宮球場で今井雄太郎にバットを投げつけ乱闘が起きた事がある。また、後楽園球場で走者の際に高代延博と激突した事もある。
帰国後は会社経営に携わっている。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- NPB
表彰
- NPB
記録
- NPB初記録
- 初出場・初先発出場:1980年7月4日、対近鉄バファローズ後期1回戦(西武ライオンズ球場)、3番・三塁手で先発出場
- 初安打:1980年7月5日、対近鉄バファローズ後期2回戦(西武ライオンズ球場)、村田辰美から単打
- 初本塁打:1980年7月13日、対阪急ブレーブス後期2回戦(阪急西宮球場)、3回表に関口朋幸から
- NPBその他の記録
背番号
- 16 (1973年 - 1980年途中)
- 10 (1980年途中 - 1985年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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