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常磐津節(ときわづぶし)は、三味線音楽の一種。浄瑠璃を語る太夫と、三味線弾きで構成される[1]。流派として常磐津と呼称される場合と、伝統芸能の1ジャンルとして常磐津(常磐津節)と呼称される場合があるが、一般的には同義として用いられている。また、芸能としての常磐津節は重要無形文化財に指定されている。
初代常磐津文字太夫(1709年-1781年)が、延享4年 (1747年) に、師匠であり養父の宮古路豊後掾と共に語った豊後節より創設した[2]語り物の浄瑠璃の一つで、全盛期を迎えていた江戸歌舞伎とともに発展した。語りと歌との均衡が取れ、整然とまとめられた「オトシ」と呼ばれる独自の旋律技法を持ち、この特徴から常磐津節は劇付随音楽として歌舞伎など舞踊劇になくてはならない音曲といわれている[3]。また、その劇性の高さから江戸時代の歌舞伎芝居では、一番目狂言(時代物)のクライマックスである大詰め(忍夜恋曲者・将門)、二番目狂言(世話物)のクライマックスである大切り(積恋雪関扉・関の扉)の所作浄瑠璃(切狂言・切浄瑠璃)を演奏することが多かった。
三味線方は、中棹の紅木三味線と象牙の撥(ばち)を用い、太夫の語りに合わせた絶妙な間合いで相方をつとめる。創流当初は佐々木市蔵などの佐々木姓、鳥羽屋里長などの鳥羽姓が見受けられるが、江戸時代を通して明治期に至るまで岸澤式佐を家元とする岸澤派が主流となる(現在は常磐津姓の三味線弾きが多数を占める)。また、歌舞伎出語りの時には、柿色の肩衣(かたぎぬ)、太夫は蛸足(たこあし)と呼ばれる独自の見台を用いるのが特色である[4]。
太夫3人・三味線2人(二挺三枚)が江戸時代の床(常磐津出語りの出演メンバー)であったが、現在は劇場の大型化に伴い、太夫4人・三味線3人の床(三挺四枚)となっており、基本的に舞台下手(しもて)に位置することが多い。舞台下手は、妖怪・亡霊・動物の精・妖術使いなどキワモノの役どころが登場する「スッポン」、歌舞伎役者が演技の大きな見せ場に出たり引っ込んだりする「花道」、それに花道を通る際に一度立ち止まり、何らかの仕草や見得の所作をする「七三(しちさん)」に近く、客席から見ると演奏方では最も目に留まる場所になっている。
現在では歌舞伎伴奏のほか、日本舞踊の伴奏、素浄瑠璃(舞踊を伴わない太夫と三味線のみでの演奏)の演奏会などで頻繁に演奏されている。また、素浄瑠璃作品には、歌舞伎役者のセリフ(科白、常磐津では台詞)を豊富に含んでいるものが多く、あまたある三味線音楽の中でもセリフの充実さが群を抜いているため、歌舞伎役者や日本舞踊家が口跡(こうせき)向上として常磐津を嗜むことが多い。この特色上、常磐津は江戸時代から現代にいたるまで、実演鑑賞のみならず習い事としても人気が高い。
京都の生まれで初代都一中に学んだ都国太夫半中は、享保8年(1723年)に師が没すると都路国太夫と改名して独立。劇的というよりは情緒的な芸風であったという。享保15年には、さらに宮古路豊後と改名し豊後節を創始。享保17年からは高弟である宮古路文字太夫を伴い名古屋に進出する。享保19年正月、名古屋で実際にあった心中事件を題材とした出世作「睦月連理椿」で大好評を得る[5]。同年、高弟文字太夫を名古屋に残してさらに江戸に進出する。播磨座で「おさん伊八道行」を演じ好評を受け、掾号を受領して宮古路豊後掾橘盛村となり、大劇場である江戸中村座に進出する。当時は豊後掾の髪形や長羽織を真似る「文金風」が一世風靡したが、享保7年から男女相対死(=心中)が法令で禁じられており、煽情的とされ心中と結び付けられた豊後節は弾圧を受けてしまう。元文元年(1736年)には、文字太夫出演の市村座「小夜中浅間嶽」に対し江戸北町奉行が興行中止を命令。元文3年に江戸での舞台を文字太夫ほか弟子にまかせ、豊後掾は西に戻り京阪の劇場で活躍する。元文4年には、浄瑠璃太夫の名を出すこと、稽古場の看板をあげること、文金風を真似ること、などが禁止され、特に豊後節の浄瑠璃語りが非常に厳しい弾圧を受ける。
元文5年に豊後掾が病死すると、延享2年(1745年)に宮古路加賀太夫が脱退(新内節)、宮古路園八(宮園節)なども脱退し分派活動が起こる。高弟である宮古路文字太夫も、延享4年(1747年)に関東文字太夫と改名したが、北町奉行により禁止され、その帰り際に住居がある日本橋檜物町(ひものちょう)に常盤橋を渡って戻る途中、師である豊後掾の本名「石津左司馬」の津を取り常盤津としたという説が有力である。後日、「皿」では割れてしまい縁起が良くないので「石」に変更され、現在では「常磐津」と明記するのが正しいとされている。寛延元年(1748年)に豊後節から共にしていた弟分の初代常磐津小文字太夫が常磐津を抜け、のちの清元節の前身である富本節を創設。常磐津節は歌舞伎との関係を密接にし、扇情的だった豊後節より芸質の向上をめざし、義太夫節を取り入れ豪快かつ勇壮さをもちながら品をよくし、舞踊との結合に相応しく明確な曲風に移り変わった(例:蜘蛛糸梓弦)。この時代の三味線は初代佐々木市蔵、二代目岸澤古式部などが勤めたが、明和5年(1768年)に佐々木市蔵が亡くなると、初代文字太夫がタテ三味線に岸澤古式部を起用したことから佐々木派の三味線弾きから不満が起こり、常磐津志妻太夫、造酒太夫らが脱退し、それぞれ豊名賀派、富士岡派として一派を形成したが、前者は二代で後者は一代で消滅した。
天明元年(1781年)に初代常磐津文字太夫が没すると、初代兼太夫が初代文字太夫未亡人から相続し二代目文字太夫を襲名。二代目文字太夫は二代目岸澤式佐、初代鳥羽屋里長などの三味線方と共に大いに活躍し、紅葉傘糸錦色木(善知鳥・安永7年)、積恋雪関扉(関の扉・天明4年)[6]、四天王大江山入(古山姥・天明8年)、戻駕色相肩(戻駕・天明8年)、其扇屋浮名恋風(吉田屋・寛政2年)など、時代物、世話物ともに現存する曲を初演し、常磐津節の基礎を整備する。二代目文字太夫の死後、遺児林之助はわずか8歳で二代目小文字太夫を襲名し若くして家元を継いだが、跡目争いで敗れ常磐津を破門された二代目兼太夫(吾妻国太夫)が興した一派(吾妻派)に押されていた。その窮地を補佐したのが家元派の三代目兼太夫である。
家元派の人々に支えられた二代目小文字太夫は、文化4年に市村座でタテ語りとして初舞台を勤めた。文化5年に元服し七代目市川團十郎の弟分となるが、病気等による休演が多かった。文政2年に三代目文字太夫を襲名するが、同年12月には病気の為に夭折する。源太(文化5年)、三つ人形(文政元年)などを初演した。この時、江戸歌舞伎の繁栄はいよいよ頂点に達し、舞踊においても「変化舞踊」と呼ばれる新たな分野が登場した[7]。常磐津はこの動きに敏感に反応し、「景清」「角兵衛」などの佳品を生むと同時に、長唄や富本節などとも積極的に掛合を行うようになり、芸質の高まりを見せることになる。江戸歌舞伎の繁栄は弟子・稽古人・愛好者などの増加にも影響し、多くの女流(女性演奏家)が活躍し隆盛を極めた。現在でも江戸時代を題材にした時代劇などで「常磐津の女師匠」が頻繁に登場するのもこのためである。
家元を失った流派は、後継者として歌舞伎役者の市川男熊を迎えた(初代文字太夫の次女カメが二代目市川門之助に嫁ぎ生まれた初代市川男女蔵の息子であり、初代文字太夫の曾孫にあたる)。文政3年に江戸三座(中村座・市村座・森田座)筆頭に名前を出し、河原崎座「老松」のタテに座り、三代目尾上菊五郎が名弘めの口上を述べ、三代目小文字太夫として初舞台を勤める。文政6年の元服式では七代目市川團十郎が烏帽子親となり、天保8年に四代目文字太夫を襲名。嘉永3年には嵯峨御所から受領して「初代常磐津豊後大掾」の掾号を得る。角兵衛(文政11年)、お三輪(天保4年)、将門(天保7年)、靭猿(天保9年)、京人形(弘化4年)、夕月(弘化4年)、新山姥(嘉永元年)、勢獅子(嘉永4年)など、現行する多くの名作を五代目岸澤式佐(1806年-1867年、古式部)と共に作り、江戸三座で大いに人気を博した。しかし、全段常磐津出語りの「三世相錦繡文章(安政4年)」に端を発し、功名争いにより岸澤派は分派してしまう。五代目式佐の叔父が十一代目守田勘弥(四代目坂東三津五郎)だった縁もあり、分離後の岸澤派は守田座への出勤が多かった。
四代目文字太夫には跡取りがおらず、四代目小文字太夫(のちの六代目兼太夫)、五代目小文字太夫(桐生小文字)と二人の養子をとったが故あって家元家から離縁。天保4年に四代目文字太夫に待望の実子が生まれる(佐六文中)。慶応元年に六代目常磐津小文字太夫を襲名するが、明治5年に病没。この時代は、三代目若太夫の興した菊菱派が初代和佐太夫によって継承され一派を形成し、常磐津岸澤分離の期間は常磐津では三味線方を、岸澤では太夫方をそれぞれつくり、多くの太夫三味線弾きが移籍・移動した混乱期であった。佐六文中の未亡人ツネが家元名義を預かっていたところ、十二代目守田勘弥が世話人となって二代目常磐津松尾太夫が養子入りする。7年間で70の歌舞伎興行のタテ語りを、六代目岸澤式佐、初代常磐津文字兵衛とともに勤めた。明治15年には守田勘弥、河竹黙阿弥の立会いのもと、岸澤派との和解の手打ちを行い、明治12年に七代目小文字太夫を襲名。和解記念曲として「松島」が初演される。
しかし、義母ツネと不和になり家元家を離れたあとは常磐津林中と改名し、二代目岸澤文字兵衛とともに、約10年間で80以上の歌舞伎興行に出勤する。七代目小文字太夫が去り再び岸澤派と分裂をした家元家は、再度家元名義をツネが預かったが、常磐津節全体の永続と派内融和を訴えた守田勘弥、岸澤式佐らの推薦により、初代浪花太夫が八代目小文字太夫として家元に就任。明治25年には名弘めの曲として「三保の松」を開曲。13年間で126興行の歌舞伎興行に出勤し、明治35年に六代目常磐津文字太夫を襲名。大正8年までの17年間に67興行の興行に、七代目岸澤式佐、二代目常磐津文字兵衛と共に出勤。明治37年には林中と和解し歌舞伎座「積恋雪関扉」の上下を分担する。七代目小文字太夫(林中)の代表曲には、「釣女」「松島」「白糸」「羽衣」、六代目文字太夫の代表曲には、「戻橋」「女鳴神」「大森彦七」「竹生島」「楠公」などがある。この時代は能楽(能・狂言)から様々な演目が輸入され、能取物、松羽目物と呼ばれる作品が多かったのが特徴と言える。
大正15年に、六代目文字太夫は息子に七代目として文字太夫を譲り、二代目常磐津豊後大掾を襲名。親子で開曲された代表曲に「佐倉」「権八」などがある。昭和2年には第一期常磐津協会が発足し、七代目文字太夫を会長に置き、二代目常磐津豊後大掾と六代目岸澤古式部とがそれぞれ相談役として座り、常磐津岸澤の分離は完全におさまる。昭和16年には、関西に発展を求めた七代目文字太夫により、関西常磐津協会が発足。この時代の歌舞伎興行は、三代目松尾太夫、三代目文字兵衛が数多く出勤していた。三代目文字兵衛は近代の常磐津、ひいては邦楽界を代表する作曲家であり、代表曲として「独楽」「椀久」「松の名所」などがある。三代目松尾太夫のあとは、三東勢太夫、千東勢太夫の兄弟へと代替わりし、芝居小屋から劇場への大型化に伴い、従来よりも調子が高く華やかな芸風の千東勢太夫が三代目文字兵衛と組み出勤する。その後、千東勢太夫は菊菱派の流れをくむ菊三郎と組み、この二人は弟子たちと共に多くの歌舞伎興行を勤め、数多の音源をレコードに残している。昭和28年に三代目文字兵衛が日本芸術院会員に任命され、昭和30年には重要無形文化財保持者の各個認定(いわゆる人間国宝)を常磐津で初めて受ける。次いで昭和41年には常磐津菊三郎が人間国宝に認定される。菊三郎の代表曲には「菊の盃」「菊の栄」などがある。昭和56年には、八代目常磐津文字太夫を初代会長とした常磐津節保存会が、重要無形文化財の保持者として総合認定されている[8]。
宗家・家元は代々常磐津文字太夫もしくは常磐津小文字太夫が継承している。当代の宗家家元は十七世家元九代目常磐津文字太夫。常磐津は古浄瑠璃時代からの流れをくみ取り、初世家元を、大阪道頓堀で最古の人形操りの芝居小屋(出羽座)を興行した太夫「伊藤出羽掾」、二世家元をその弟子で世話物浄瑠璃元祖ともいわれる「文弥の泣き節」で好評を博した「二代目岡本文弥」、三世家元を京都南座の前身「都万太夫座」を創立し、近松門左衛門、初代坂田藤十郎とくみ元禄期の全盛を迎えた「都越後掾」、四世家元をその弟子で一中節を創始した「都太夫一中(都一中)」、五世家元をその弟子の「宮古路豊後掾(都国太夫半中)」と数える。宮古路豊後掾の弟子宮古路加賀太夫は新内節、宮古路園八は宮園節、宮古路繁太夫は繁太夫節として独立。これら豊後系浄瑠璃のなかでも、宮古路豊後掾の一番の高弟である宮古路文字太夫が常磐津節を創設し六代家元となり、さらにそこから豊後三流(常磐津節、富本節、清元節)と枝分かれし、現在まで古格を守っている。掾号を受領した太夫に九世家元の四代目常磐津文字太夫(初代常磐津豊後大掾)、十四世家元の六代目常磐津文字太夫(二代目常磐津豊後大掾)がいる。三味線方は岸澤家の岸澤式佐が代々岸澤派の家元を継承する。
代数 | 家元名 | 前名 | 生没年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
初 | 伊藤出羽掾 | 初代岡本文弥 | (生没年不詳) | 出羽座の座元。からくりや糸操りで好評。 |
二 | 岡本文弥 | 二代目岡本文弥 | 1633年-1694年 | 二代目岡本文弥。「文弥の泣き節」を創始。 |
三 | 都越後掾 | 都越後目 | (生没年不詳) | のちの都万太夫。都万太夫座を創立。 |
四 | 都太夫一中 | 須賀千朴 | 1650年-1724年 | 一中節の始祖。弟子に宮古路豊後掾。 |
五 | 宮古路豊後掾 | 都国太夫半中 | 1660年-1740年 | 豊後節の始祖。弟子に初代常磐津文字太夫。 |
六 | 初代常磐津文字太夫 | 宮古路文字太夫 | 1709年-1781年 | 常磐津節の始祖。弟弟子に初代富本豊前掾。 |
七 | 二代目常磐津文字太夫 | 初代兼太夫 | 1731年-1799年 | 「積恋雪関扉」など、常磐津節の基礎を整備。 |
八 | 三代目常磐津文字太夫 | 二代目小文字太夫 | 1792年-1819年 | 市村座で元服。七代目市川團十郎の弟分。早世。 |
九 | 四代目常磐津文字太夫 | 三代目小文字太夫 | 1804年-1862年 | 常磐津節中興の祖。初代常磐津豊後大掾。 |
十 | 五代目常磐津文字太夫 | 四代目小文字太夫 | 1822年-1869年 | 初代常磐津豊後大掾と確執が生じ離縁。 |
十一 | 六代目常磐津小文字太夫 | 常磐津太夫文中 | 1841年-1872年 | 初代常磐津豊後大掾の実子。佐六文中。早世。 |
十二 | 七代目常磐津小文字太夫 | 二代目松尾太夫 | 1842年-1906年 | 名人初代常磐津林中として名高い。 |
十三 | 常磐津太夫文中 | 生年不詳-1901年 | 佐六文中未亡人ツネが家元名義を預かる。 | |
十四 | 六代目常磐津文字太夫 | 八代目小文字太夫 | 1851年-1930年 | 松羽目物など多く初演。二代目常磐津豊後大掾。 |
十五 | 七代目常磐津文字太夫 | 九代目小文字太夫 | 1897年-1951年 | 常磐津協会設立。関西常磐津協会設立。 |
十六 | 八代目常磐津文字太夫 | 十代目小文字太夫 | 1918年-1991年 | 常磐津節保存会設立。重要無形文化財総合認定。 |
十七 | 九代目常磐津文字太夫 | 十一代目小文字太夫 | 1947年- | 定本常磐津全集、常磐津節演奏者名鑑の制作。 |
代数 | 家元名 | 前名 | 生没年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
初 | 初代岸澤式佐 | 式助 | 1730年-1783年 | 宮古路古式部(右和左古式部)の門弟。岸澤派を常磐津三味線に定着。二代目古式部。 |
二 | 二代目岸澤式佐 | 市治 | 1753年-1823年 | 常磐津における三味線岸澤派の基礎を整備。三代目古式部。初代右和佐。 |
三 | 三代目岸澤式佐 | 二代目九蔵 | 1774年-1823年 | 三代目古式部没後、仲助と跡目相続を求めて裁判。敗訴して憤死を遂げる。二代目右和佐。 |
四 | 四代目岸澤式佐 | 初代文蔵 | 1772年-1822年 | 仲助の実父。文化期の岸澤派を統率。名古屋で客死。 |
五 | 五代目岸澤式佐 | 仲助 | 1806年-1867年 | 常磐津と軋轢が生じ不和となる。十一代目守田勘弥が叔父。四代目古式部。竹遊斎。竹翁。 |
六 | 六代目岸澤式佐 | 初代巳佐吉 | 1833年-1898年 | 幕末・明治期の岸澤派家元。常磐津家元との和解後は常磐津節の地位確立に貢献。五代目古式部。 |
七 | 七代目岸澤式佐 | 二代目巳佐吉 | 1859年-1944年 | 六世古式部に家元を預けていたため、彼の退任前後と合わせ八代目式佐も名のる。七代目古式部。 |
八 | 八代目岸澤式佐 | 七代目式佐に同じ。 | ||
九 | 九代目岸澤式佐 | 四代目巳佐吉 | 1892年-1979年 | 七代目古式部の養子となるが返上して独立。一時期、常磐津正派を樹立。常磐津勘右衛門。 |
十 | 十代目岸澤式佐 | 五代目巳佐吉 | 1909年-1962年 | 七代目古式部の実子。大正・昭和期の岸澤派家元。 |
十一 | 十一代目岸澤式佐 | 六代目巳佐吉 | 1943年-2013年 | 十代目式佐の実子。伯父に八代目坂東三津五郎。 |
名人として名高い初代常磐津林中は、近世邦楽史不世出の名人とされ、清元節の家元五代目清元延寿太夫、長唄研精会を創始した四代目吉住小三郎(吉住慈恭)など他流の名人からも一目置かれ、明治39年の万朝報には「名人と称へられたるは、僅かに能楽の梅若六郎、宝生九郎と、常磐津の林中と三人なりし…」等と高い評価を受けている。また、一説では後藤象二郎にとても気に入られたという説がある。
明治から現在までに活躍した流派の代表的人物として、七代目常磐津小文字太夫(初代常磐津林中)(1842‐1902)、六代目常磐津文字太夫(二代目常磐津豊後大掾)(1851‐1930)、二代目常磐津文字兵衛(四代目松寿斎)(1857-1924)、七代目岸澤式佐(六代目岸澤古式部)(1859-1944)、三代目常磐津松尾太夫(1875-1947)、三代目常磐津文字兵衛(常磐津文字翁)(1888-1960)、九代目岸澤式佐(常磐津勘右衛門)(1892-1979)、七代目常磐津文字太夫(1897-1951)、初代常磐津菊三郎(1897-1976)、三代目常磐津三東勢太夫(1907-1983)、十代目岸澤式佐(1909-1962)、初代常磐津千東勢太夫(1916-1978)、八代目常磐津文字太夫(1918-1991)、四代目常磐津松尾太夫(1927-2017)、四代目常磐津文字兵衛(初代常磐津英寿)(1927-)、初代常磐津一巴太夫(1930-2014)、十一代目岸澤式佐(1943-2013)、九代目常磐津文字太夫(1947-)らがいる。
常磐津作品は、ジャンルで大別すると「時代物(宗清など)」「世話物(油屋など)」「御祝儀物(子宝など)」「松羽目物(釣女など)」などとするのが一般的で、そのほか作品題材から「曽我物(夜討曽我など)」、「道行物(おその道行など)」、曲単位では昔話に取材した「二人桃太郎」、大長編読本に取材した「八犬伝」、日本三大仇討に取材した「忠臣蔵」、頼光四天王が活躍する「戻橋」、家元常磐津文字太夫によってのみ語られる「老松」などがあるが、仙台浄瑠璃を採り入れた「蜘蛛の糸」、三河万歳を採り入れた「乗合船」、かっぽれを題材にした「初霞空住吉」、角兵衛獅子を題材にした「角兵衛」など他の芸能を題材にしたもの、さらには新歌舞伎十八番に数えられる「大森彦七」、新古演劇十種に数えられる「羽衣」まで、非常にバラエティに富んだ作品が多いことが特徴といえる。代表的な曲は「将門(忍夜恋曲者)」「関の扉(積恋雪関扉)」、全段常磐津出語りの「三世相錦繍文章」などがある。江戸時代までは毎月のように新作が作られていたが、明治以降は歌舞伎興行の形式変化に伴い古典作品ばかり扱われるようになった。現存する曲は300とも400とも言われているが、現在は、歌舞伎伴奏で用いられるもの、日本舞踊伴奏で用いられるもの(日本舞踊の演目)、素浄瑠璃で演奏されるものを合わせて50~60曲前後が主に演奏されている。
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