Loading AI tools
日本の政治家 ウィキペディアから
岩月 収二(いわつき しゅうじ、1918年(大正7年)1月15日[1] - 2005年(平成17年)9月7日)は、日本の政治家。元愛知県安城市長(3期)。
愛知県安城町(現・安城市)出身。安城町立青年学校を経て、1938年(昭和13年)3月に満州国公主嶺陸軍航空隊第七教育隊に入隊。1941年(昭和16年)3月、陸軍航空技術学校卒業。1944年(昭和19年)7月、少尉候補者試験に合格[2]。
1946年(昭和21年)、安城町役場に奉職。1958年(昭和33年)、自治大学校卒業。総務部長時代、東海道新幹線建設に先立って用地買収に奔走した[3]。1969年(昭和44年)5月、助役に就任[2][4]。
1979年(昭和54年)の安城市長選に向けて、「市長選はしこりが残るような争いをしない方がいい」と考えた杉浦正行県議が中心となり、候補者擁立を目的とする団体「住みよい安城をつくる市民の会」が作られる。同団体は旧愛知4区の自民党代議士、保守・中道の市議、商工会、町内会などで構成され、擁立された岩月は1月26日告示・2月4日投票の市長選に自民党・民社党の推薦、公明党の支持を受けて立候補。無投票で初当選した[5][6]。
地元主要団体の統一候補として当選したものの、中野四郎衆議院議員の腹の虫は収まらなかった。岩月は浦野烋興系列と見なされており、中野直系の都築義幸市議を対抗馬に推す話が流れためであった。市長選直後の同年3月、中野は自派の安城市議6人を碧南市本郷町の事務所に呼びつけ、「お前たちは一体何をしてたんだ。なぜ(中野派から)候補者を出さなかったのだ」と激しく叱責した。代表格の石川修市議に対しては「お前は県議選に出たいと言っているそうだな。まだ早い。やめておけ」とさらに高圧的な態度をとった。これが原因で同市議6人は全員、1980年(昭和55年)の総選挙で中野から離反した[7][8]。
西三河を中心にした9市6町で構成する「東海道新幹線三河新駅新設期成同盟会」の会長として三河安城駅の開業に力を尽くした[9]。3期市長を務め1991年(平成3年)に勇退。後任の市長には杉浦正行県議が名乗りを上げ[10]、無投票で当選した。同年、勲四等瑞宝章を受章[3]。
2005年(平成17年)9月7日、肺炎のため死去[4]。87歳没。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.