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山田 かん (やまだ かん、1930年(昭和5年)10月27日 - 2003年(平成15年)6月8日)は、日本の詩人。長崎市出身。本名は山田 寛 (ひろし)[1]。
1930年10月27日、キリスト教プロテスタント信者山田好雄を父として、八人兄弟の長男として長崎市に生まれる[2]。1945年8月9日、旧制長崎中学校3年のとき、長崎市下西山町で被爆[1]。1948年7月、父が川に転落死し、貧窮のため長崎高等学校 (旧制)3年のとき自主退学、長崎県立長崎図書館の出納手となる[2]。この頃、一年ほど日本共産党党員として活動するとともに詩作をはじめる[2]。長崎県立長崎図書館に勤務[1]。西彼杵郡長与町に住む。
1952年6月21日に創刊した雑誌「芽だち」に参加、作品を発表していく[3](1959年、38号で終刊)。1953年12月、ともに被爆した妹が佐世保市日野峠で自殺[2]。1954年、第一詩集「いのちの火」。1955年、長崎文学懇話会「地人」に参加[3]。1958年に「鯨と馬」で第1回現代詩新人賞[1]。1961年(昭和36年)、詩誌「橋」を発行。
1969年、第二詩集『記憶の固執』。1970年、第1回長崎県文芸賞。1971年、第三詩集「ナガサキ・腐蝕する暦日の底で」発表。
1972年、永井隆の浦上燔祭説を「民衆の癒しがたい怨恨をそらし慰撫する、アメリカの政治的発想を補強し支えるデマゴギー」として批判し[4][5]、『原爆は神の摂理』という永井説は、「長崎原爆に神や祈りのイメージを付加し被爆者を沈黙させ、原爆による大量虐殺の本質、使ったアメリカの罪悪を覆い隠す役割を果たした」と批判した[4]。
1975年、「アスファルトに仔猫の耳」。1979年(昭和54年)に「草土」を発行。
1990年、諫早市に転居[2]。
1994年(平成6年)、 長崎ウエスレヤン短期大学非常勤講師。2001年、『長與ながよ』発表。2002年、「長崎碇泊所にて」。
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