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小野 剛(おの たけし、1962年8月17日 - )は、千葉県出身のサッカー指導者。

概要 小野 剛, 名前 ...
小野 剛
名前
カタカナ オノ タケシ
ラテン文字 ONO Takeshi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1962-08-17) 1962年8月17日(62歳)
出身地 千葉県
ユース
チーム
1978-1980 日本の旗 千葉県立船橋高校
1981-1984 日本の旗 筑波大学
監督歴
チーム
2002-2006 日本の旗 サンフレッチェ広島
2014-2015 日本の旗 ロアッソ熊本
2019 日本の旗 FC今治
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
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来歴

初期

千葉県立船橋高等学校筑波大学体育専門学群卒業。大学の2年先輩に松田浩、1年先輩に風間八宏鈴木淳望月一頼がいる[1]筑波大学蹴球部4年間をCかDチーム(3ないし4軍)で過ごし[1]、大学4年時には蹴球部副キャプテンを務めた[2]

1988年、筑波大大学院体育研究科修士課程修了、1990年まで筑波大助手兼サッカー部コーチを務めた[2]。1990年から1996年まで成城大学法学部専任講師を務め、その間成城大サッカー部コーチや東京都学生選抜および関東大学選抜コーチなどを経験した[2]。1994年から1年間、リバプール・ジョン・ムーア大学客員研究員を経験している[2]

よって小野には、プロのサッカー選手どころか実業団サッカーの経験もない。1994年全米サッカーコーチ協会英語版(NSCAA)公認上級コーチライセンス、同年イングランドサッカー協会(FA)公認上級コーチライセンスを取得する[2]

JFAスタッフ

小野が初めて日本サッカー協会(JFA)スタッフとなったのは筑波大助手時代の1988年「カリキュラム委員会」委員となってからである[2]。以降、加藤久田嶋幸三らと共に若年層強化を図る[2]

1996年、JFA技術委員を務めていた今西和男にスカウトされ、Jリーグサンフレッチェ広島強化部コーチとして若年層指導者育成に尽力する。1997年、JFA 公認S級コーチライセンスを取得する[2]

1997年に日本代表監督に就任した岡田武史よりアシスタントコーチに指名される[2]1998 FIFAワールドカップにもコーチとして参加する[2]

その後はJFAおよび日本オリンピック委員会の若年層強化スタッフとして活躍する[2]。1999年、西村昭宏率いるU-20日本代表のコーチに就任し、2002年のトゥーロン国際大会ではU-21日本代表ヘッドコーチ(U-23日本代表の暫定監督)として松井大輔山瀬功治阿部勇樹らを擁し3位入賞を果たす[2]

サンフレッチェ広島

2002年9月、広島のヘッドコーチに就任[2]。クラブはJ1残留争いをしていたが戦術が定まらず混迷していたため、同年10月監督の木村孝洋からヘッドコーチ職の小野に実質的な監督職として全権限が委任された[3]。チームは立ち直った[3] がそれまでの失った勝ち点が響き同年末にJ2に降格した。降格を受け木村は辞任、小野が正式に監督に昇格した[4]

J2へ降格したクラブを3年後にはJ1で優勝争いする目標を立て、森崎和幸森崎浩司駒野友一ら若手を中心に据え、その後佐藤寿人を補強するなど若返りに努めた[5]

2002年天皇杯ではベスト4入り。2003年末にはJ1復帰を果たす[4]2005年シーズン前半は一時期2位まで順位をあげるも、後半は息切れし最終的には7位で終了する[6]。 2006年、ウェズレイ戸田和幸らJリーグでの実績を持つ選手を補強、若手の多いクラブに経験を注入させ更なる上位を目指すものの、チーム作りに失敗し、リーグ戦8試合を終了した時点で5敗3分の成績不振の引責をとり退団した[7]

その後

2006年8月田嶋幸三の後を受け、JFA技術委員長に就任する[4]

2007年11月16日に脳梗塞で倒れたイビチャ・オシム日本代表監督の後任としてホルガー・オジェックらが候補に上がる中、旧知の仲である岡田武史に就任を打診し同年12月に正式契約を結んだ[8][9]

2009年2月、技術委員会の組織変更に伴い強化担当には原博実が就任し、小野は育成担当となった。小野が技術委員長時代の年代別日本代表は、U-17U-20女子U-23(五輪代表)といずれも世界大会に出場するも、U-20男子だけは8大会ぶりに世界大会出場を逃している。2010年1月14日付けで、育成担当技術委員長及びJFA理事を退任した[10]

退任後は、2009年から就任しているFIFAインストラクター[4] をこなしながら、テレビ解説の仕事をしていた。2010年12月にはベガルタ仙台フロントの内紛騒動の中で次期監督候補となっていた[11][12]

2011年末、岡田武史の指導者活動再開に際し杭州緑城を奨めた[13] ことにより岡田は杭州監督に就任、その際岡田から副官として指名され2012年から杭州コーチとして支えることになった[14]。この時の杭州は日本人スタッフを大量に登用しており、甲組(U-20)を小野・乙組(U-18)を石崎信弘が監督を務め、岡田・小野・石崎の尽力により、陳中流石柯謝鵬飛中国語版を含めた若い中国人選手を育てあげている。2013年末、小野を含めた杭州の日本人スタッフは全員退任した[15]

2014年、ロアッソ熊本監督に就任する[16]。1年契約であったが、若手の登用を積極的に行い昨年から順位を6上げた手腕を評価され、2015年も継続して指揮を執ることになった[17]

2015年11月7日、熊本の男性スタッフの背中を踏み付けるなどの行為を行ったことについて、Jリーグよりクラブ及び小野に対して11月5日付で厳重注意処分を受けたと報じられた[18]。クラブより続投要請を受けていたものの、目標を達成できなかったことと前述の事件に対する責任を取る形で辞退、2015年シーズン限りでの監督退任が11月25日に発表された。

2018年2月、日本サッカー協会技術委員会委員に就任[19]

2018年12月、FC今治の監督に就任した[20]日本フットボールリーグで13勝12分け5敗の成績を収め、3位でチームをJ3昇格に導いたが[21]、2019年12月7日に退任が発表された[22]

2020年1月16日日本サッカー協会技術委員復帰が発表された。

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指導歴

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監督成績

さらに見る 年度, チーム ...
年度チーム所属大会名順位勝点試合Jリーグカップ天皇杯
2002広島J1--------ベスト4
2003J2-2位864425118-4回戦敗退
2004 J1 1st13位1515366予選リーグ敗退4回戦敗退
2nd11位1615375
年間12位313061311
2005J1-7位5034131110予選リーグ敗退5回戦敗退
2006-18位38035予選リーグ敗退-
2014熊本J2-13位5442131514-2回戦敗退
2015-13位5342131415-3回戦敗退
2019今治JFL--県予選敗退
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  • 2002年は天皇杯から指揮。
  • 2005年シーズンより、1st,2ndステージ制を廃止し、1シーズン制を採用している。
  • 2005年シーズンより、J1チームは16チームから18チームに拡大された。
  • 2006年は途中解任(数値は解任時の数値)。
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脚注

参考資料

関連情報

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関連項目

外部リンク

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