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小菅 一夫(こすげ かずお、1901年10月23日 - 1984年11月10日)は、日本の浪曲作家[1]、演芸評論家[2]。
1923年、6代目林屋正蔵が自費で行なった新作落語の懸賞に応募し、応募作「夢そば」が一等なしの二等に選ばれた[3]。その後、伊井蓉峰一座の文芸部に身を置いて高村龍平名義でラジオ・ドラマの脚本などを書き[4]、さらに新派文芸部の所属となった[3]。
第二次世界大戦中は、浪曲作家として活動しており、1942年には浪曲による「大東亜戦史」の企画の中で、春日井おかめに新作の台本を提供した[3]。
戦後も浪曲作家としての活動を続け、富田常雄の小説『姿三四郎』を浪曲にして、2代目広沢菊春の得意演目のひとつとして当たりをとった[5]。1953年には、ラジオ東京(後の東京放送→TBSラジオの前身)の企画で、村松梢風の評伝集『近世名勝負物語』から脚色した「二人の王将」を梅中軒鶯童に提供した[6]。また、1958年には、講談の3代目神田伯山で知られた『祐天吉松』を浪曲化し、2代目広沢虎造に提供した[7]。小菅は特に虎造とは懇意であり、虎造の未亡人から、浪曲の権利の管理を任されていたとされる[8]。
一方で小菅は、朝日放送東京支社嘱託という立場で、全盛期のラジオの浪曲番組の制作に関わっており、ラジオ放送用の脚色を数多く手がけていた[8]。また、自ら演芸評論家としてメディアに出演することもあり、TBSラジオの番組『浪曲天狗道場』で審査員を務めた[要出典]後、1966年から始まったフジテレビの『しろうと寄席』では、8代目桂文楽、一龍斎貞丈、初代相模太郎、アダチ龍光とともに、審査員となった[2]。
後年には、おもに浪曲音源の復刻盤の解説などの執筆活動を行った[9]。
澤田隆治は、ラジオ番組の制作で一緒に働いた経験から、小菅を「僕の東京の師匠」としている[8]。澤田は、小菅の17回忌に際し、『小菅一夫が見た明治大正の浅草と劇場』という遺稿集をまとめているが、一般には発売されていない[10]。
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