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日本の明治時代後期~昭和時代後期の浪曲師 ウィキペディアから
梅中軒 鶯童(ばいちゅうけん おうどう、1902年〈明治35年〉2月24日 - 1984年〈昭和59年〉10月30日)[1])は浪曲師。本名は美濃寅吉。関西浪曲界で活動した。亡くなる直前まで舞台に立ち、独自の「鶯童節」で人気を博した。
京都生まれの神戸育ち。生家は理髪店[要出典]。師匠を持たず独立独歩で歩み、数え10歳の1911年に梅中軒鶯童を名乗り、神戸の相生座で初舞台を踏んだ。
名人・古老と言われた多くの浪曲師からネタを譲り受け、自家薬篭中の物にする。1934年8月発売の「紀伊國屋文左衛門」(SP盤)が大ヒットし、その他の演題でもレコードを多数吹き込んだ。
舞台・座敷に加え、戦後はラジオ・テレビにも活動の場を広げ、多くの録音を残した。1947年に浪曲親友協会会長、1973年には同協会の名誉会長に就任した。
喉が大変に弱く、ちょっと酷使をすると喉が腫れて寄席を休まざるを得ないことが度々あった。がそれが逆に「鴬童節」と呼ばれる胴声ではない、上声の独特の軽味のある節調につながり、マイクの発達に合わせて時代の主流を張るようになる。
得意ネタは「みかん大尽(紀伊國屋文左衛門)」「吃又」などがあった。落語家や落語関係者とも親交があったため、落語の大ネタ「高津の富」「らくだ」を浪曲化している。膨大なネタ、資料、台本(ネタ帳)は、直弟子の天龍三郎に受け継がれた。
1965年に出版した自伝『浪曲旅芸人』は、明治末期から昭和の浪曲世界を書き記した貴重な随筆集で、1968年にNHKで「流れ雲」の題でドラマ化され、金田龍之介が鶯童を演じた[2][3]
ほか多数。
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