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小笠原 貞正(おがさわら さだまさ)は、幕末の大名。豊前小倉新田藩(千束藩)の第9代(最後)の藩主。
天保11年10月27日[2](1840年11月20日)、安房国ほかに7000石を領した大身旗本[3]・小笠原信学の次男[2]として江戸の鳥越に生まれる[4]。安政3年6月6日(1856年7月16日)、第8代小倉新田藩主・小笠原貞寧が隠居したため、その養子となって家督を継いだ[2]。同年6月25日、将軍徳川家定に拝謁する。同年12月16日、従五位下・近江守に叙任する。安政5年2月2日(1858年3月16日)、大坂加番を命じられる。
文久元年7月9日(1861年8月14日)、大番頭に就任する[2]。文久3年4月19日(1863年6月5日)には大坂の警備を任じられた[2]が、9月4日に辞任する。慶応元年(1865年)に本家の小倉藩主・小笠原忠幹が早世し、跡を継いだ豊千代丸(後の忠忱)が幼少であったため、貞正がその後見人となって監督した[1][2]。同年11月9日、長州征討に際して幕府から500俵を賜る。小倉藩とともに長州藩と戦うものの敗北を重ね、熊本藩領に避難する。慶応2年10月5日(1866年11月11日)、熊本藩の長岡護美に書状を送って長州藩との休戦の仲立ちもしくは兵の援助を願う。
明治2年(1869年)6月に藩庁を上毛郡千束(現在の豊前市)に移す[2]。同年6月24日、版籍奉還により千束藩知事となった[4]。明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県で免職となり、東京に移った[4]。
明治5年5月28日(1872年7月3日)に隠居し、養子の貞規(加藤明軌の次男)に家督を譲った。その後、官位も返上している。明治39年(1906年)3月21日に死去した。享年67[2]。
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