小禄
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小禄(おろく、沖縄語: ウルク)は、沖縄県那覇市最南部の位置する一地区で、かつては島尻郡小禄村(おろくそん)として存在していた。
1954年に那覇市に編入。現在、那覇市役所小禄支所の管轄。一般的に小禄支所管内(おろくししょかんない)といわれる。
本項では島尻郡小禄村についても述べる。
那覇市南西部の半島状の部分に位置する。その北部には国場川が流れ、現在では那覇市唯一の在日米軍基地である那覇港湾施設(那覇軍港)が存在する(ただし軍港内の住吉町・垣花町と隣接する山下町・奥武山町はもともと小禄の一部だったが、19世紀末に那覇区に編入されたため現在は小禄支所管内ではなく本庁管内である)。
那覇空港があり、沖縄県の空の玄関としての役割を持ち、沖縄都市モノレール線、本島内各会社の路線バス、高速バスが通り、空港周辺はレンタカーの事務所が軒を連ねる。そのため、沖縄本島の交通の要所としての役割を持つ。
また、中西部の金城(かなぐすく)地区は、米軍基地施設の跡地利用により建設され、ショッピングセンターなどが立ち並び、住宅街としても整備される。南東部の宇栄原地区には大規模な団地がある。小禄はここ20〜30年で発展し、ほぼ全域で土地区画整理事業を盛んに行なってきた。
古くから小禄に定住している人は、ウルクンチュ(小禄の人、小禄人)と呼ばれ、ムンチュー(門中)意識が強い。特に年配者は、ウルクムニー(小禄喋り)と呼ばれる独特のイントネーションで話す。
※字大嶺は那覇空港滑走路部分にあたり、また字赤嶺・具志・宮城は大部分が自衛隊施設と一部が娯楽施設として使用されていることから無住である。
小禄村では沖縄戦以後も米軍による土地の強制接収があり、小禄村のそのほとんどが米軍基地となった。
1933年8月、日本軍が旧小禄村大嶺の土地を強制接収し小禄飛行場を建設した。
1945年、沖縄戦の激戦地となった小禄での戦闘後、米軍によって占領され、基地建設「那覇エアベース」や那覇軍港に関連する諸施設が建設され、住民は収容所に収容される。
1947年8月、米軍は具志・宮城・高良・赤嶺の住民に帰村を許可した。米軍はこの時点で既に小禄村の面積の70.45%を占有していたため、住む場所を奪われた住民は、米軍が廃棄したテントを張ったり、トタン葺きの仮住まいを建て、そこに何世帯かが同居するという状態であった。
1953年12月5日、米国民政府は米軍住宅建設のため、具志に武装兵を出動させ、さらに約2.4万坪を接収し、米軍の那覇空軍・海軍補助施設を設置した。これにより小禄村の8割以上が米軍基地となった。
1954年、那覇市に編入され、小禄村は廃止された。
1972年、沖縄返還協定により、多くの米軍基地が自衛隊基地として移管された。
1982年3月31日~1986年10月31日、多くの米軍基地がそのまま自衛隊基地に移行するなか、1982年から1986年にかけて那覇空軍・海軍補助施設の東側にある金城地区 (108.8ha)が返還された。1983年から小禄金城土地区画整備事業が行われ、那覇の郊外型大型店舗とベッドタウンとして発展、その経済効果は返還前と比較して14倍となった[1][2]。
国道
県道
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