小崎愃
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小崎 愃(こざき けん、1939年12月14日 - 2018年12月)[注 1]は、熊本県出身[注 2]のアナウンサー。
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来歴
立命館大学法学部卒業後[注 3]、1964年に近畿放送(KBS京都、現在の京都放送)へ入社した(同期入社は飛鳥井雅和)[注 4]。主に土曜・日曜競馬中継(日曜の中継は昭和末期まではラジオでの中継であったが、テレビに移行したことでラジオの競馬中継を終了した)を担当し、エキサイトナイター・近鉄エキサイトアワー、高校野球、関西学生スポーツ中継やタイムリー10にも出演した。
特に競馬中継では、ラジオではミスターシービー(1983年)・シンボリルドルフ(1984年)、テレビではナリタブライアン(1994年)が三冠を達成した瞬間を伝えたほか、ラジオではテンポイントが出走していた第25回日本経済新春杯(1978年)を、テレビではダンスインザダーク(1995年)・サイレンススズカ(1997年)の新馬戦をそれぞれ担当した実績がある。
1980年代まで競馬実況の中心であったが、1990年代初頭には久保房郎・濱野圭司・宮本英樹・寺西裕一ら後進に譲る判断で土曜競馬中継の司会進行に回る。しかし、イトマン事件の影響を受けたKBS京都が1994年に会社更生法の適用申請をするに至り、機を同じくしてこの事件に激怒した濱野・寺西らがKBSを退社する事態となったことから、人材不足を補うべく実況に復帰した。
退職後はフリーアナウンサーとして活動した。古巣・KBS京都のプロ野球中継を担当したほか、京都市伏見区のFM845でラジオパーソナリティを務め、2015年9月29日の「ピッカピカラジオ」をもって引退した。
競馬実況に関するエピソード
- 実況ではゴールの瞬間を「ゴールイン」ではなく「○○(勝馬)1着」と言うスタイルで、同局の後輩アナウンサーの多くが踏襲した。多用する言い回しとしては「直線に入りました、直線に入った」や「まもなく/やがて200の標識です」。大レースでは「わーわーと大歓声」、接戦の時は「ほとんど同時」と言うことが多かった。
- 日本ダービーをはじめ関東エリアのGIレースでも現地取材を行い、土曜中継の最終レース終了後や日曜中継でレポートを担当した。また、記録用に実況も行っている(レース当日の中継やダイジェストではラジオたんぱの実況を使用)。
- 1971年には映画「現代やくざ 血桜三兄弟」に声だけで出演し、劇中で実況を担当した[1]。
- 1996年のバイオレットステークスでは降雪により、1400mレースのうち、ゴール前約300m地点まで全く馬が見えない中での実況であった。
- 1978年の第25回日本経済新春杯では、実況内でテンポイントを「日本の、そして世界のアイドル」と称賛していたが、そのテンポイントは約1分後に故障を発症した。
主な競馬実況歴
下記のみならず、80年代前半までの近畿放送の競馬中継において多くのメインレースを担当した。
GIレース
その他
- 金杯 (西)(1975年)
- 平安ステークス(1995年)
- シンザン記念(1997年)
- 日経新春杯(1978年)
- 京都牝馬特別(1996年)
- きさらぎ賞(1995年)
- 京都記念 (春)→京都記念(1975年、1995年)
- マイラーズカップ(1978年、1997年)
- 阪神障害ステークス (春)(1989年、1992年)
- プロキオンステークス(1996年)
- 鳴尾記念(1974年、1994年)
- 中日スポーツ賞4歳ステークス(1991年)
- 金鯱賞(1991年)
- 小倉記念(1991年)
- ローズステークス(1985年)
- ハリウッドターフクラブ賞(1973年)
- 京都記念 (秋)(1973年)
- スワンステークス(1996年)
- 朝日チャレンジカップ(1973年)
- デイリー杯3歳ステークス(1994年)
- 京都大障害 (秋)(1989年)
- ラジオたんぱ杯3歳ステークス(1991年)
- 阪神牝馬特別(1989年)
出演番組
KBS京都
- とんとんモーニング
- ピッカピカラジオ(最後の担当番組。2015年9月29日降板[6])
出演映画
- 現代やくざ 血桜三兄弟(1971年、東映) - 作中における競馬実況[1]
脚注
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