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江戸時代後期の武士 ウィキペディアから
寺西 封元(てらにし たかもと[1]、1749年(寛延2年)- 1827年3月15日(文政10年2月18日))は、江戸時代後期の武士、文化文政時代の幕府代官[2]。特に、陸奥国白川郡塙(福島県塙町)の代官としての事績で知られる[2]。通称、寺西重次郎[2]。
安芸国豊田郡三原(広島県三原市)に浅野家の下級家臣の子として生まれ、幼名を畦松(くろまつ)といった[3]。やがて父が浪人となり、幼くして寺に入るが[3]、15歳で還俗し[2]、江戸へ出た父の後を追った[3]。
父の没後、いち早く徒士となっていた兄、茂平の伝手で、1772年(安永元年)7月幕府西城御徒頭の柘植守清組の徒士となり[3]、1792年(寛政4年)には徒士組頭から取り立てられて、陸奥国白川郡に入り、塙代官として6万石を預かり、さらに小名浜領3万石の統治にも当たった[2][4]。
塙代官として、儒教の五倫五常を平易に説いた、いわゆる寺西八ヶ条を広めるなど[5]、農民の教化に努め、間引きの横行などによって生じていた人口減少に歯止めをかけ、周辺の諸藩からも注目されるようになった[1][2]。
1814年(文化11年)には、陸奥国伊達郡桑折陣屋(福島県桑折町)3万石を預かることとなったが、引き続き塙、小名浜、合わせて8万石も統治し、さらに半田銀山や、川俣代官所の2万石を治めていた[2]。桑折に移った後の塙代官所には、息子の隆三郎(後の蔵太)を置いて統治に当たらせた[4]。
1818年(文政元年)、勘定組頭を兼ねて、江戸在勤となったが、1820年(文政3年)には桑折代官に復帰し、そのまま1827年(文政10年)に桑折で死去するまで代官職にあった[2][3]。
墓は、桑折町の無能寺にある[2]。
後代には、もっぱら「名代官」として伝えられる寺西封元であるが、1816年(文化13年)に川俣代官だった山本大膳の転任に伴い、川俣の統治を寺西が引き継ぐことになった際には、多くの村役人が、小名浜の事情を踏まえて「御改正は名ばかりにて、内実は賄賂の多少により賞罰これあり候に付き、百姓の難渋は少なからず、却って困窮している」として寺西への引き継ぎを拒んだという[6]。
寺西八カ条[7]
一ケ条 天はおそろし
ニケ条 地は大切
三ケ条 父母は大事
四ケ条 子は不憫、可愛
五ケ条 夫婦むつまじく
六ケ条 兄弟仲よく
七ケ条 職分を出精
八ケ条 諸人あひきゃう
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現代の塙町では、「寺西八ヶ条」は簡略化した形で普及が図られている[5]。
塙代官御定書 寺西八カ条 天領の郷 塙町
一.天はおそろし
二.地は大切
三.父母は大事
四.子は不憫・可愛
五.夫婦むつましく
六.兄弟仲よく
七.職分を出精
八.諸人あいきょう
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