寺町廃寺跡
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寺町廃寺跡(てらまちはいじあと)は、広島県三次市向江田町にある古代寺院跡。元々の寺名は「三谷寺(三谿寺)」と推定される。国の史跡に指定されている。
広島県北部、三次盆地東縁の馬洗川・国兼川の間の丘陵南斜面に位置する白鳳寺院跡である。1979-1982年度(昭和54-57年度)および2018年度(平成30年度)以降に発掘調査が実施されている。
伽藍は法起寺式伽藍配置で、金堂を西、塔を東、講堂を北に配し、回廊が金堂・塔を囲んで講堂左右に取り付く。創建は白鳳期で、平安時代初頭の9世紀初頭頃に廃絶したと推定される。平安時代初期の『日本霊異記』に見える「三谷寺」は寺町廃寺を指すと考えられており、寺院名が判明するとともに、三谿郡大領の祖による建立と知られる点、百済僧の招請によるという建立と百済様式の軒丸瓦の出土が対応し朝鮮半島との直接的関係を示す点で注目される[1][2]。また広島県北部を中心に分布する水切瓦の最古級の型式が出土する点でも重要な寺院跡になる[3]。
寺域は1町(約108メートル)四方と推定される[5]。金堂を西、塔を東、講堂を北に配する法起寺式伽藍配置で、主要伽藍として金堂跡・塔跡・講堂跡・回廊跡の遺構が認められる[6]。遺構の詳細は次の通り。
伽藍の南寄りには中門・南門があったと推定されるが、現在までに確認されていない。
寺域からの出土品としては、瓦類として軒丸瓦・平瓦・丸瓦・鴟尾が、土器類として須恵器・土師器や中国唐時代末期の三彩陶器片(晩唐三彩)がある[6]。軒丸瓦は9種類が認められ、いずれも下端に三角状突起を有する水切瓦になる[3]。水切瓦は、広島県北部を主として広島県・岡山県・島根県にのみ分布する特徴的な遺物であり、寺町廃寺ではその中でも最古級の型式が出土する点で注目される[3]。また素弁蓮華文の軒丸瓦は百済様式とされる[7]。出土瓦の様相からは、7世紀中葉[2](または7世紀末葉[3])の創建で9世紀初頭頃に廃絶したと推定される[3]。寺町廃寺の瓦を焼成した窯跡は、北西約1.5キロメートルの山中にある大当瓦窯跡(三次市和知町)であることが判明しており、寺院跡と合わせて国の史跡に指定されている[3]。
なお南西約1.2キロメートルには上山手廃寺跡が、南約2キロメートルには三谿郡の郡衙推定地(志幸町幸利)がある[1]。特に上山手廃寺跡は、寺町廃寺から距離が近いうえに、金堂・講堂が寺町廃寺と同様の塼積基壇であり[1]、水切瓦が使用され、軒丸瓦の文様も寺町廃寺跡と同じになる[8]。ただし塔が存在しないことから、三谷郡の大領一族によって寺町廃寺に続いて建立された寺院と推測される[8]。
寺町廃寺に関しては、平安時代初頭に編纂された『日本霊異記』の記述が関連記事として知られる。すなわち『日本霊異記』上巻第七の「亀の命を贖(あか)ひて放生し、現報を得て亀に助けらえし縁」では、
「 | 禅師弘済(ぐさい)は百済の国の人なりき。百済の乱れし時に当りて、備後国の三谷郡の大領の先祖、百済を救はむが為に遣はさえて、旅(いくさ)に運(めぐ)りき。時に誓願を発して言はく、「若し、平らかに還り卒らば、諸の神祇の為に伽藍を造り立てまつらむ」とまうす。遂に災難を免れき。即ち禅師を請けて、相共に還り来り、三谷寺を造る。其の禅師の造り立てまつりし所の伽藍多なり。(以下略) | 」 |
と見え[9]、この「三谷寺」が寺町廃寺に比定される。百済僧の弘済の招請によるという建立は、寺町廃寺跡で出土する百済様式の素弁蓮華文軒丸瓦と関連するとして注目される[1][7]。
また、江戸時代の文政8年(1825年)完成の『芸藩通志』には向江田村の「廃興法寺」として記事が見える[1]。これによれば、かつては「蓮台山金剛院」と称して7堂伽藍や5院91坊があり、江田氏の祈願所として修営を受けたが、江田氏滅亡の際の兵火で焼失して層塔・鐘楼・二王門の跡が残るという[1]。寺域から出土した中世期の土器はこの記事を裏付けるとされるが、中世期の瓦は認められない点が注意される[1]。
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