寺田市正

ウィキペディアから

寺田市正

寺田 市正(てらだ いちまさ、1876年明治9年〉4月25日[1] - 1958年昭和33年〉8月21日[2])は、日本の衆議院議員政友本党立憲民政党立憲政友会)、拓務政務次官川内市長

概要 生年月日, 出生地 ...
寺田 市正
てらだ いちまさ
Thumb
生年月日 1876年4月25日
出生地 日本鹿児島県薩摩郡水引郷五代村
没年月日 (1958-08-21) 1958年8月21日(82歳没)
死没地 日本鹿児島県川内市
出身校 明治法律学校
前職 会社員

当選回数 7回
在任期間 1924年 - 1946年

在任期間 1940年 - 1946年

当選回数 1回
在任期間 1955年 - 1958年8月21日
テンプレートを表示
閉じる

経歴

鹿児島県高城郡水引郷五代村(現在の薩摩川内市五代町)に寺田宗七の長男として生まれた[3][4]。小学校教師を務めた後、上京して明治法律学校(現在の明治大学)で学び、1900年(明治33年)に卒業した。卒業後の2年間、明治法律学校の舎監を務め、やがて時事新報の記者となった[4]1915年大正4年)、時事新報社を退社し、自由通信社の主幹となった[4]

1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。以後、連続当選回数は7回を数えた。その間、平沼内閣で拓務政務次官を務めた[5]。また1940年(昭和15年)には初代川内市長に就任し、1946年(昭和21年)まで在任した[6]

同年、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となった[7]1951年(昭和26年)に追放解除[8]

追放解除後の1955年(昭和30年)に再び川内市長を務め、死去するまでその職にあった[6]

脚注

参考文献

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.