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山形県米沢市元籠町生まれ。旧制米沢興譲館中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)を経て1916年東京高等商業学校(現一橋大学)卒。中学時代、浜田広介や上泉秀信と同人誌を作っていた。高商同期の歌人浦野敬はのちに、大熊の創刊した歌誌「まるめら」の同人となった[1]。
1916年日清製粉入社。米沢商業学校で教鞭をとった後、1919年東京高等商業学校専攻部進学、1921年同卒。1941年経済学博士(東京商科大学)。論文の題は「経済理論における配分原理の所在並に適用に関する基礎的研究」[2]。
1921年小樽高等商業学校(現小樽商科大学)講師、1922年同教授、1923年病気で同校を退職。南湖院で闘病する。1927年高岡高等商業学校(現富山大学経済学部)教授、1929年から1931年まで文部省在外研究員として、イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国に留学。戦時期は「政治経済学」の構築を唱道、1942年高岡高商を退職し海軍省大臣官房調査課嘱託、1943年大日本言論報国会理事。
小樽高等商業学校で小林多喜二、伊藤整、高岡高等商業学校で篠原三代平、西川義朗などを教えた。
1946年山形県地方労働委員会初代会長。1947年公職追放を受ける。1948年、米沢に教育思想研究会を創立主催し旺盛な研究執筆活動を行う。公職追放解除後は論壇で活動の傍ら、1952年神奈川大学教授、1953年富山大学経済学部長、1965年神奈川大第二経済学部長、1971年創価大学教授を歴任した。1975年に請われて竹岸食肉専門学校校長に就任するが、1977年劇症肝炎のため米沢市で死去。
没後2年の1979年に、大熊の人と思想・文学・学問上の業績をさまざまな角度から検討・研究・整理し、大熊が問題意識をいだいていたさまざまな領域について討論の場を設けるために大熊信行研究会が発足した[3]。1993年6月には生誕百年記念講演会が東京と山形で開催され、東京では板垣與一が主催者代表挨拶をし篠原三代平「大熊経済学の印象」、鶴見俊輔「国家の二重性と家の二重性」の講演が行われた[4]。山形では鶴見俊輔が姉の鶴見和子に替わり「大熊信行にとっての文学」と題する講演を行った[5]。大熊信行研究会は論創社内に事務局を置き2015年6月まで年に1回、東京で研究会・偲ぶ会を開いていた。
経済学者としては、資源配分論として、ミクロ経済学の研究を、先駆的に行うなどした[6]。
歌人としては、旧制中学時代に石川啄木の影響で作歌を始め、土岐哀果の「生活と芸術」や反アララギの砦となった「日光」に短歌を発表。1927年に「香円(まるめら)」を創刊して主宰となり、「まるめら調」と呼ばれるようになる口語自由律短歌を世に送り出した。歌人としての活動は高く評価されていたが、出版された歌集は没後刊行の全歌集『母の手』のみである。
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