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高知県の自由民権運動家 ウィキペディアから
児島 稔(こじま みのる、安政2年6月20日(1855年8月2日) - 1921年(大正10年)9月17日)は高知県の自由民権運動家。南嶽社、嶽洋社員、『高知新聞』客員、高松文武講習所主幹。酒屋会議、5円紙幣偽造事件に関与し、2度入獄した。
安政2年(1855年)6月20日土佐国吾川郡名野川村(高知県吾川郡仁淀川町名野川)に[1]土佐藩士大野(大伴[1])大作の長男または次男として生まれ[2]、土佐郡小高坂村(高知市小高坂越前町)に移った[1]。幼名は鶴五郎[2]。漢字の変更(読みは同じ)含め、生涯で6度名を変えた[3]。
明治4年(1871年)頃県御雇教師ハロルド・E・レーネルに英語を学んだ[4]。明治5年(1872年)以前小島喜左衛門の養子となり[2]、築屋敷に移った[5]。
在京中征韓論や自由民権運動に共鳴し、1874年(明治7年)板垣退助が愛国公党を結成して帰郷すると、これを追って帰郷し、地方政社南嶽社結成に参加した[7]。1878年(明治11年)9月愛国公党再興大会に出席し、12月南洋社と合併して嶽洋社となってからも社を主導し、1880年(明治13年)国会期成同盟の国会開設請願書に署名し、立志社の私擬憲法審議に参加した[8]。
同年坂本南海男と「島坂稔男」の変名で土佐郡上街町会規則に婦人参政権を盛り込む運動を行い、実現した[9]。1881年(明治14年)8月『高知新聞』客員となった[10]。
1881年(明治14年)10月東京で自由党創立大会に参加した。植木枝盛と共に酒税軽減運動を行い、酒屋会議開催を呼びかける檄文を配布したところ、12月3日新律綱領不応為条により禁獄30日、士族除籍を言い渡され[11]、入獄した[12]。
1883年(明治16年)朝鮮開化派の支援運動に参加し、1885年(明治18年)11月発覚した大阪事件では紙幣偽造計画に関わったとされるが、逮捕されるには至らず、直接関与したかどうか不明[14]。
1886年(明治19年)11月政治体制変革を志し、大阪市東区平野町二丁目借屋で速見市次郎等と5円紙幣偽造を試みたが、上手く造れず断念した[15]。
1888年(明治21年)1月大阪苦楽部創立に参加し、『東雲新聞』を発行した[13]。同年5月7日小島家と離縁して大伴稔となり[2]、1890年(明治23年)3月13日分家を起こし、16日大伴直念と改名した[15]。
その後、偽造計画は1円紙幣、山陽鉄道株券へと対象を変え、実行に移された。1890年(明治23年)7月25日事件が発覚すると、大伴直念は5円偽造予備・1円偽造予備幇助で起訴され、1894年(明治27年)3月2日5円偽造予備について重禁錮4年6月、監視1年を言い渡された[16]。
1897年(明治30年)1月31日英照皇太后崩御の大赦で刑期を短縮され、7月2日出獄すると[17]、8月25日大伴分家を廃し、9月13日名野川村森山の絶家大島家を継ぐ形で、22日大島更造と改名した[18]。
帰郷後、『土陽新聞』にKO生(大島更造のイニシャル)の変名で「土陽新聞小歴史」を連載し[19]、土佐史壇会でも活動したが、政治活動からは身を引き、1921年(大正10年)9月17日午前2時30分小高坂村の自宅で病没した[20]。
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