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中世期に存在した日本の芸能者 ウィキペディアから
声聞師(しょうもじ)は、中世(12世紀 - 16世紀)期に存在した日本の芸能者である[1][2][3]。陰陽師の文化を源流とした読経、曲舞、卜占、猿楽等の呪術的芸能、予祝芸能を行った[1][2][3]。「声聞師」は「しょうもんじ」「しょもじ」とも読み、また同様の読みで、唱門師、唱聞師、聖問師、唱文師、誦文師とも漢字標記した[1][2][3]。江戸時代(17世紀 - 19世紀)に盛んになった「門付」芸能の源流でもあり[4]、大和猿楽から発展し、能楽に発展させた観阿弥・世阿弥をも生むことになる[5]。
声聞師は、高橋昌明によれば、金鼓打ち、暦の頒布、民間の陰陽師、千秋万歳・曲舞などの呪術的雑芸能、盆、彼岸なとに家を訪れて経を誦しあるいは摺仏を配る者である[6]。また高橋は、水についての説話を民間へ広めた伝道者でもあるという。 筒井功によれば柳田國男は、唱門師を「ハカセ(民間の陰陽師)」「陰陽師」「萬歳」「傀儡」「算所太夫」「田楽法師」「鉦打ち」「鉢叩き」と同列視して[7]いる。
「声聞師」の行う芸能は、古代日本の律令制(7世紀 - 10世紀)において、中務省陰陽寮に属した技官である陰陽師の文化を継承、あるいは模倣したものである[1][2]。したがって、もともと陰陽師であった、あるいは下級の陰陽師であるとされるが、実際のところは定かではない[1][2][3]。陰陽寮における陰陽師の定員は「6名」であり、各地に散らばる「声聞師」の数はそれを大幅に上回っている。いずれにしても、「声聞師」とは、技官でもなければ、聖職者でもない、職業芸人である[1][2][3]。渡辺昭五は、「声聞師」の語源を「声聞身」(仏弟子の姿)であるとし、実態としては、荘園の本所で夫役労働を行っていた被差別層であるとする[8]。
室町時代(14世紀 - 16世紀)には、寺に属しあるいは没落して民間に流れ、その活動が活発化する[1]。15世紀に尋尊が記した日記である『大乗院寺社雑事記』によれば、大和国奈良の興福寺では、「五ヶ所」「十座」といった集団的居住地「声聞師座」を形成し、同寺に所属する「声聞師」たちがそこに生活の根拠を置いた[1][3]。同寺に属する「声聞師」たちは、「猿楽」、「アルキ白拍子」(漂泊する白拍子)、「アルキ御子」(漂白する歩き巫女)、「鉢タタキ」(鉢叩)、「金タタキ」(鉦叩)、「アルキ横行」(漂白する横行人)、「猿飼」といった国内の「七道者」を支配し、各地から来た彼らから金銭を受け、そのかわりに巡業の手配を行ったとされる[1][9]。自らは、「陰陽道」のほか、釈迦の説法である「金口」、「暦星宮」、「久世舞」(曲舞)、「盆・彼岸経」、「毗沙門経」(毘沙門経)等の芸能をもって生業としたとされる[1]。この時期、興福寺や春日大社、法隆寺での猿楽を行った「声聞師座」(大和四座)は、
であり、「結崎座」からは観阿弥・世阿弥、「円満井座」からは金春禅竹らが登場し、やがて猿楽を能楽へと発展させた[5]。
同じ時代、日吉大社には「上三座」「下三座」の近江猿楽があった[10]。
が存在したが、室町時代末期には衰退した[10]。
この時代の奈良の曲舞座の芸人たちを「声聞師」と呼び、京都では「散所非人」と呼ばれた[11]。『東寺巷所検注取帳』(応永3年、1370年)によれば、14世紀の京都では、「八条猪熊と堀川間の南頬」(現在の南区西九条藤ノ木町・西九条池ノ内町あたり)等に「声聞師」の「屋敷」があったという[12]。1423年11月(応永30年10月)、近江国(現在の滋賀県)、河内国(現在の大阪府)、美濃国八幡(現在の岐阜県美濃市)等の「声聞師」たちを京都に呼び集め、亭子院、楊梅小路(現在の楊梅通)、六道珍皇寺、矢田寺、六角堂(頂法寺)等で「勧進曲舞」を行った記録が残っている[13]。
戦国時代(16世紀)の宮廷では、陰陽道による正月の儀式は陰陽頭が行ったが、正月四日・五日には「千秋万歳の儀」があり、これを民間の芸能者である「声聞師」が行った[14]。当時の京都の「声聞師」は、
に集団的に居住していた[14]。なかでも桜町の「声聞師」集団を「大黒党」、その長を「大黒」と呼び、上記の「千秋万歳」のほか、小正月(旧暦1月15日)の「左義長」(三毬打)、重陽(旧暦9月9日)の「菊の着綿」、といった諸儀式を行った[14]。グレゴリオ暦1570年2月8日にあたる元亀元年正月四日には、正親町天皇(第106代天皇)が、「声聞師」の行った「千秋万歳」と「大黒舞」を観覧した記録が残っている[15]。この時代、地方で起きた「一向一揆」の扇動者側に立ったため、織田信長や豊臣秀吉らによって処刑されていった「声聞師」たちもいる、と渡辺昭五は指摘している[8]。
江戸時代にはいると、賤民化し、非人、猿飼、願人坊主(願人)等とほぼ一体化した[3]。
「声聞師」が行った儀式・芸能のなかで現代も残るものは、能楽のほかにも、左義長がある[16]。全国各地でさまざまな呼称で、小正月に行われている火祭りである[16]。南方熊楠は、左義長の際に太鼓を叩く儀礼がある点と、「どんど焼き」という呼称との関連を示唆している[17]。
柳田國男は、『唱門師の話』で、遠州掛川のハカセ小太夫の自称「聲聞身」を紹介しながら『言継卿記』では正しい表記を「聲聞師」であるとし、『二水記』の「聖門師」、『塵添壒嚢抄13』に、家々を訪れて阿弥陀経を誦して金鼓を打つ「聲聞師」は、仏教系の「声聞」とは異なるため「唱門師」と書いた方がよいという旨、北河内での「正文」、越前萬歳の「證文士」、『年中行事大成』1にある「犬神人」(「つるめそ」)の党類を「唱門師」と表記する件について「元日、禁裏の日華門の外で、毘沙門経を誦する」と書かれる点を「門を強調した」説明としている[18]。柳田の説を享け、語源を「声聞」とする喜田貞吉は、「アイヌ語のシャモまたは沙門との関係、「シャマニズムのサモン」との関連する可能性も「確かでない」としながら一応示唆している。[19]
「声聞師」の行う儀式・芸能の一覧である。
なお喜田貞吉は、「夙・茶筅・鉢屋・傀儡師」は「古えの土師部・浮浪民等」が本流にあり、声聞師は後世から行うようになったとする。
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