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坂齋 小一郎(坂斎-、さかさい こいちろう[1]、1909年 - 1985年[2])は、日本の映画プロデューサー、撮影技師、労働運動家、実業家、児童文学者である。姓の「ばんざい」[3]の読みは誤り。
22歳を迎える1931年(昭和6年)に帝国キネマ演芸が新興キネマへと改組され、坂齋は同社の京都太秦撮影所(現在の東映京都撮影所)技術部に入社、撮影助手をつとめるが、翌1932年(昭和7年)4月、会社の人員整理の方針に反対した同志とともに同社を解雇される[4]。坂齋の解雇を期に「新興キネマ争議団」を結成、争議が開始され、同年6月に沈静化した[4]。
1933年(昭和8年)5月の京都市議選の前後に、日本共産党京都市委員会が再建され、坂齋が同委員長に就任する[4]。同時期に京都大学で起きた瀧川事件に直面、瀧川幸辰解雇反対運動を同大の高木養根とともに学外から支援した[4]。同年6月20日、坂齋は高木ら83名とともに一斉検挙された[4]。
その後、1936年(昭和11年)に設立された同盟通信社に参加[2]、1941年(昭和16年)には銀座の十字屋の文化映画部が製作したドキュメンタリー映画『映画は前進する』に、撮影技師としてクレジットされた[2]。同年、社団法人日本映画社が設立され、その後同社に入社し、1943年(昭和18年)からは陸軍報道班とともに太平洋戦争を記録する映画の現場に、撮影技師として参加した[2]。
第二次世界大戦後は、1947年(昭和22年)6月、国鉄労働組合等、40数労組が設立した「労働組合映画協議会」に参加、同協議会の事業部門として、1950年(昭和25年)10月1日に共同映画社を創立し[5]、代表に就任する[2]。以降多くの映画の製作・配給・上映を行い、1963年(昭和38年)8月12日、同社を株式会社として登記した[5]。
67歳を迎える1976年(昭和51年)6月、自伝『映画に生きる』を上梓する[1]。同年から、児童文学を執筆、発表する活動を始めている[1]。
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