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東秩父村北西部に位置する[4]。北で大内沢、大里郡寄居町西ノ入と、東で奥沢と、南東で御堂と、南で皆谷と、 西で 皆野町三沢と隣接する。小字として坂本・内手・新井・大平・栗和田・北貝戸・落合・柴・和知場・上の山が挙げられる。西部を貫流する槻川に沿って県道11号線が縦貫する[4]。県道沿い及び槻川の西側斜面に民家の散在する山村であり、村天然記念物のタラヨウジュ・ヤマザクラ・大欅がみられる[4]。
古くは平安時代に成立した[5]玉川領武光荘に属したと言われる[4][6]。江戸期初めは天領だったが文化9年(1812年)より旗本菅谷氏・旗本森本氏の相給となる[4]。『武蔵国郡村誌』によればこの時期に上坂本村・下坂本村に分村し明治2年(1869年)に再び合併したとされるが、郷帳類では一貫して一村とされる。『武蔵田園簿』によれば村高は131石余、他に紙舟役450文、「元禄郷帳」では249石余、「天保郷帳」では298石余[4]。『旧高旧領取調帳』では吉田吉左衛門知行として293石余が、他に八幡社領として5石余が計上されている。 坂本村は分水嶺の東側にあるが秩父郡の郡管に属する外秩父十五ヶ村のひとつに数えられている[7]。江戸時代には毎月27日に市が立ち、和紙の原料である楮皮が売買された[7]。明治時代に入って1884年(明治17年)には連合戸長役場制により、坂本村は皆谷村・白石村・大内沢村と共に秩父郡坂本村連合戸長役場区域に属した[8]。後の1889年(明治22年)4月1日、町村制施行に伴いこの秩父郡坂本村連合戸長役場区域の4ヶ村は合併して槻川村となり坂本村は槻川村の大字坂本となった[4]。戦後の1956年(昭和31年)には槻川村が大河原村と合併し東秩父村を新設、東秩父村の大字となった[4]。明治26年の凍霜害をはじめ、たびたび凍霜害・雹害を受けている。
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