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四稜郭(しりょうかく)は、箱館戦争において蝦夷共和国(箱館政権)が、1869年(明治2年)に五稜郭の北方(現在の北海道函館市陣川町)に築城した堡塁。新台場、神山台場、新五稜郭などとも呼ばれる。国の史跡[1]。
四稜郭 (北海道) | |
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四稜郭土塁 | |
別名 | 新台場、神山台場、新五稜郭 |
城郭構造 | 稜堡式 |
天守構造 | なし |
築城主 | 蝦夷共和国 |
築城年 | 明治2年(1869年) |
主な改修者 | なし |
主な城主 | 蝦夷共和国 |
廃城年 | 1869年 |
遺構 | 土塁 |
指定文化財 | 国の史跡[1] |
位置 | 北緯41度49分32.09秒 東経140度46分14.86秒 |
地図 |
五稜郭を拠点とした榎本武揚率いる箱館政権が、その支城として、また北海道東照宮を守護する為に築いた。その構築された時期に関する詳しい資料はないが、『四稜郭史』(服部安正)にある古老の話などから、1869年の4月下旬頃に構築が始まったとされ、建設には城中から士卒が約200人、赤川・神山・鍛冶村から約100人が加わり、ほとんど昼夜の区別なく働いて数日で出来上がったという[4]。
堡塁の形状は蝶が四方に羽を広げた形で、東西約100メートル、南北約70メートルの範囲に、幅5.4メートル、高さ3メートルの土塁を盛り、その周囲に幅2.7メートル、深さ0.9メートルの空堀を設けている[5]。南西側に門口があり、その後方に幅0.9メートルほどの通路が設けられている[6]。郭内の面積は約2,300平方メートルで、土塁の四隅には砲座が配置されているが建物はない[5]。
建設を指揮したのは大鳥圭介らである[7]。設計者について、徳山藩に関連する『奥羽並蝦夷地出張始末』(岩崎季三郎・市立函館図書館蔵)では「仏人フリヨネー」(ジュール・ブリュネ大尉)としている[4]。
四稜郭を構築した榎本軍側では構築当時より「四稜郭」と称していた[4]。一方、官軍側の記録では「神山台場」としているが、岡山藩や福山藩に関連する記録では「神山新五稜郭」や「新五稜郭」と書かれている[4]。
なお、四稜郭以外に当時造られた要塞としては川汲台場(現・函館市)や峠下台場(現・七飯町)などがある[8]。
1869年5月11日の箱館総攻撃で権現台場とともに陥落した[9]。大鳥圭介の『幕末実戦史』の記述などから構築は未完成のまま官軍の攻撃を受けたものとみられている[4]。
箱館戦争の終結後は荒廃が進んでいたが[5]、1934年(昭和9年)1月22日に国の史跡に指定された[5][1]。旧亀田町によって1969年度(昭和44年度)から1972年度(昭和47年度)にかけて土塁の修復等の環境整備工事が実施された[5]。合併後も1990年(平成2年)から函館市による再整備が断続的に続けられている[5]。
5月には、付近一帯はスズランの花畑となる。
2002年(平成14年)5月26日のNHK『新・クイズ 日本人の質問』において「五稜郭を見るうえで重要なもの」として、四稜郭が紹介された。
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