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高良 とみ(こうら とみ、1896年7月1日 - 1993年1月17日)は、日本の婦人運動家、平和運動家、政治家。参議院議員(2期)。筆名は高良 富子[1]。国会議員として戦後初めてソ連を訪れ、シベリア抑留者復員の突破口を開いた[2]。
富山県生まれ。旧姓は和田。父は土佐藩士の子で、アメリカ帰りの土木技師、内務省官僚。母は養蚕家田島弥平の孫娘で、婦人運動家。県立第一神戸高等女学校(現兵庫県立神戸高等学校)、日本女子大学英文科卒業。コロンビア大学、ジョンズ・ホプキンズ大学で心理学を専攻、日本女性として初めて博士号を取得した(定義による[3]が、高良はその一人)。学位論文の題は "An experimental study of hunger in its relation to activity"[1]。インドの詩人ラビンドラナート・タゴールと親しかった。「日本の婦人の進歩のために働いてほしい」という母の頼みで帰国した後、九州帝国大学医学部精神科の研究員として採用される。4年ほどして助教授に推薦されるが、「未婚の女性が男子学生に教えるなどとんでもない」という美濃部達吉の反対により九州帝国大学を去る[4]。母校の日本女子大教授となり、1929年森田療法の精神科医で後に東京慈恵会医科大学名誉教授となる高良武久と結婚する。戦時中は大政翼賛会中央協力会議婦人代表。
戦後、1947年の第1回参議院議員通常選挙に民主党から出馬し当選。1949年緑風会に移籍し、参議院議員を2期12年間つとめた[1]。
1952年、パリで開かれたユネスコ会議、続いて4月にモスクワで開催された世界経済会議にも参加(戦後日本人として初めてのソ連入りであった)[1] 。外務省の旅券発給拒否のためソ連入りの遅れた帆足計、宮腰喜助らと合流し、成立間もない中華人民共和国代表の招請を受け、同年5月に北京を訪問し、初の民間貿易協定を結んだ。
モスクワ滞在中には、日本人抑留者に会いたいとソ連側に働きかけ、実際ハバロフスクの第21分所を訪れて日本人抑留者と面会した。この収容所は実は高良の訪問用にソ連が急遽用意した施設で、健康な抑留者を営外作業に出し、重症患者は別の病院に移すなどの工作が行われ、高良の他の収容者はどうしたのかとの問いに対し、所長は「日曜日なのでみな魚釣りか町へ映画を見に行った」と応えている[5]。また、戦時中にソ連に亡命して生死不明になっていた女優岡田嘉子の生存を確認し、日本のメディアに伝えたのも高良である。
1953年、日本婦人団体連合会副会長。 この年、訪中。中国東北部の鶴崗市の炭鉱で強制労働をさせられていた日本人を解放するために中国紅十字会代表と交渉。約1700人の引き揚げが実現した[6]。
1980年、タゴール生誕120年にあたるこの年、詩聖タゴール像設立委員会で日本タゴール協会長として中心的な役割を務め、長野県軽井沢町の碓氷峠の見晴台に高田博厚作「タゴール像」を建立した[8]。
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