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1921年、慶尚南道金海に生まれる。1943年、関西大学法科卒業。学徒出陣して福知山予備士官学校卒業[1]。広島県の中国軍管区歩兵第5補充隊(第48部隊[2][3])に勤務し、ここで原爆にあって顔半分を被曝し皮膚の色が違っていた[4]。終戦時、日本軍少尉。韓国に帰国後は朝鮮建国準備委員会慶南支部軍事顧問[1]。
1946年2月28日付で、軍事英語学校卒業の扱いで任少尉(軍番10059番)、第5連隊(釜山)付[1][5]。同年3月、第5連隊B中隊(中隊長:李致業少尉)副官[6]。1947年、第5連隊作戦主任(大尉)[7]。1947年12月1日、第3旅団人事参謀(少領)[8]。1948年6月28日、第3旅団参謀長(中領)[9]。同年8月8日、第5旅団参謀長[9]。1949年4月15日、第22連隊長[10]。同年5月、護国軍参謀副長補佐官[1]。同年7月25日、第10連隊長[11]。
1950年3月に来日して第24師団で研修を受けていたが[12]、朝鮮戦争が勃発すると帰国。部隊(呉徳俊部隊と呼ばれる)を編成して西南部で第6師団の遅滞に任じた。1950年10月14日、陸軍本部高級副官[13]。1950年11月12日、第9師団長[14]。1951年1月2日、第1軍団参謀長(1月13日まで)。同年2月15日、陸軍本部人事局長[15][16]。1951年5月23日、第11師団長[17]。1952年8月、済州地区衛戍司令官兼第1訓練所長[18]。1953年6月17日、第15師団の3代目師団長に就任して陣地の補強や部隊整備に専念していたが、アメリカ陸軍指揮幕僚大学留学のため、6月25日に離任[19]。
1955年、合同参謀本部長。
1957年7月、第3軍団長[20]。
1959年7月、第5軍団長[21]。
1960年5月、戦闘兵科教育司令官。
1961年、予備役編入。11月、農業協同組合中央会長。
1963年、韓国輸出貿易公社代表理事。
1964年、大東工業株式会社会長。
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