厳敏永
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厳 敏永(オム・ミニョン、朝鮮語: 엄민영/嚴敏永、1915年2月4日 - 1969年12月10日[1])は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の政治家、官僚、弁護士。本貫は寧越厳氏[2]。漢字表記は厳敏英とも[3]。日本名は雉山 敏夫(きじやま としお)。
慶尚北道慶山郡[3]または善山郡にて誕生[4]。大邱公立高等普通学校(のちの慶北高等学校)を経て、1936年法政大学予科修了。1939年九州帝国大学法文学部法科卒業[5]。米国ノースウェスタン大学法科大学院修了[3]。高等文官試験行政科に合格して朝鮮総督府の官吏となり、京城地方専売局清州出張所で勤務した。1943年以後、全羅北道任実郡と茂朱郡の郡守を務めた[4]。
太平洋戦争(大東亜戦争)終戦後は、全羅北道農商部長と全羅南道農林局長を務めた。その後は教育職に転向し、大邱大学校教授とソウル大学校法科大学教授を務めた。1957年に慶煕大学校法学部の学部長に就任[4]。
1960年の四月革命により第一共和国が崩壊した後は、民主党所属で参議院議員に当選。1961年に5・16軍事クーデターが発生すると、金度演が主導した自由民主党に合流。だが自由民主党の旧民主党系で内紛が発生し、蘇宣奎と衝突。厳敏永は自分の会派を率いて民主共和党へ移動[6]。朴正煕は厳敏永を国家再建最高会議議長顧問に起用した。第三共和国にて内務部長官を2度務め、1967年より駐日大使に着任。在任中の1969年12月10日に54歳で逝去した[4]。
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