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江戸時代前期の医師 ウィキペディアから
半井 成近(なからい なりちか[1])は、江戸時代初期の医師。4代半井驢庵[1]、法名は瑞寿[1]。徳川幕府で奥医師の長である典薬頭を務めた[1]。
半井驢庵家に生まれる。父の利親(瑞玄)は慶長8年(1603年)に25歳で没した[2]。母は藤堂高虎の娘[2]。
寛永元年(1624年)10月、江戸に召し出されて徳川家光に仕えた[2]。この年、祖父の半井成信(3代驢庵、瑞桂)は通仙院を号し、剃髪した成近に驢庵の号を譲った[2]。寛永5年(1628年)には家光の疱瘡や瘧疾[注釈 3]に対して調薬を行った[2]。寛永7年(1630年)には幕府からの執奏により、朝廷から素絹の着用を許された[2]。
寛永8年(1631年)の年頭には奥医師の筆頭として拝謁した[2]。寛永9年(1632年)10月27日、相模国高座郡で1000石の知行を与えられた[2]。
寛永10年(1633年)5月21日には将軍の命により、小田原藩主稲葉正勝の病気を診察するために小田原に派遣される[2]。寛永14年(1637年)、家光の病気の診察にあたる[2]。同年、家蔵の『聖済総録』に欠本があったため、幕府所蔵本から写本を行って補うことを願い出、全200冊を整えた[2]。
その後、家光の勘気を被り[2]、一時期奥医師から外された[1]。寛永15年(1638年)9月17日に赦免されて職務に復帰した[2]。
成近は江戸来住後も隔年で京都に赴き、朝廷に奉仕した[3]。寛永16年(1639年)3月11日、家光の命を受けて京都に派遣されて、「御咳気」を患った東福門院の治療にあたった[2]。同年6月9日には、久志本常尹と交互に朝廷に勤仕するよう命じられた[2]。
同年6月15日、祖父の遺領[注釈 4]であった山城国愛宕郡内の500石[注釈 5]も合わせ、合計1500石を知行した[2]。しかし同年10月9日に京都で没した[2]。
寛永元年(1624年)に幕府に召し出された際、成近(驢庵)の屋敷は元吉原(中央区日本橋人形町付近)に設けられた[3]。なお、驢庵の江戸屋敷は子の半井成忠(5代驢庵)の時代に明暦の大火で焼失し、小川町(千代田区神田小川町)・表猿楽町(千代田区神田猿楽町)に移転した[3]。
知行地の相模国高座郡本郷村(恩馬本郷村とも[3]。現在の神奈川県海老名市本郷)には下屋敷が設けられ[3]、「驢庵屋敷」の名で伝えられた[8]。付近には「驢庵坂」などの地名が残る[9]。1936年に「驢庵半井瑞寿館阯之碑」が建碑されている[8][注釈 6]。
『寛政重修諸家譜』によれば、以下の子女がいる[5]。
母は藤堂高虎の娘、妻は横浜一庵(正勝)の娘[2][3]。「半井家先祖書」によれば、横浜一庵の正室は藤堂高虎の養女であり[11]、半井家・藤堂家・横浜家は重縁関係にある[11][注釈 7]。成近の母(藤堂高虎の娘)は一庵が開基となった泉涌寺照善院に葬られた[13]。
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