圓徳院
京都市東山区にある高台寺の塔頭 ウィキペディアから
京都市東山区にある高台寺の塔頭 ウィキペディアから
圓徳院(えんとくいん、常用漢字体:円徳院)は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。高台寺の塔頭。本尊は釈迦如来。豊臣秀吉の正室・北政所が晩年に自身の本拠地としたことで知られるほか、一説にはその終焉の地ともいう。所蔵されている三面大黒天は秀吉の念持仏と伝わるものである。
豊臣秀吉の没後、正室の北政所は、慶長8年(1603年)に朝廷から「高台院」の号を勅賜されると、秀吉の菩提を弔おうと寺院の建立を発願し徳川家康もその建立を支援した。
家康と高台院は、現在高台寺や圓徳院があるこの地にあった岩栖院を南禅寺の境内に塔頭として移転させると、慶長10年(1605年)に高台院は実母である朝日局が眠る康徳寺(現・上京区上御霊馬場町にあった)をこの地に移転させて新たな寺院・高台寺を建立し、その境内を整えていった。
その際、高台院は高台寺の西側に自らの屋敷と甥の木下利房の屋敷を造営することとし、同年に伏見城にあった北政所化粧御殿とその前庭をこの地に移築して自らの邸宅・高台院屋敷とした。翌慶長11年(1606年)に高台寺は完成している。
高台院は没するまでの19年間を高台院屋敷と高台寺で過ごすと、寛永元年(1624年)9月6日に屋敷で亡くなった。
寛永9年(1632年)、高台院屋敷は木下利房によって高台寺の三江紹益を開山として高台寺の塔頭・圓徳院に改められた。以降は木下家の菩提寺となった。
寛政元年(1789年)2月9日、高台寺で火災が発生して小方丈や庫裏などが焼失した。そこで、高台寺は寛政7年(1795年)に当寺の北政所化粧御殿を高台寺の小方丈にするために解体、移築が行われ、当寺には代わりとして新たに北書院が建立された。なお、高台寺の小方丈となった北政所化粧御殿は文久3年(1863年)7月26日に放火で焼失している。
江戸時代に高台寺北門から続く参道であった、当寺と高台寺の間は現在では「ねねの道」と呼ばれている。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.