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公孫 竜または公孫 龍(慣用音: こうそん りゅう、漢音: こうそん りょう[1]、拼音: 、紀元前310年代頃 - 紀元前250年代頃[2])は、古代中国戦国時代の思想家[3]。諸子百家の名家の筆頭。「白馬非馬説」「堅白論」などの奇怪な学説をといた。趙の平原君の食客だったが、陰陽家の鄒衍より排撃を受けて趙を去った[4]。著作として『公孫龍子』が伝わる。字は子秉(しへい)[5]。
平原君の食客の一人として数度助言したことが、『史記』平原君虞卿列伝や『呂氏春秋』審応覧淫辞篇に伝わる。『史記』には以下の内容が伝わる。
紀元前260年、長平の戦いで趙は秦に決定的な敗北を喫し、首都邯鄲を包囲されるという危機に陥った。しかし、宰相の平原君が、楚の春申君や魏の信陵君に救援を求めて同意を得ることに成功し、ついに紀元前258年、合従軍によって秦は撤退した。によれば、その後、趙の学者・政治家の虞卿は、平原君が信陵君を趙に招いて邯鄲を救ったことを理由として、平原君の領地を加増するよう王に進言しましょうと申し出た。
その夜中、公孫龍は平原君の屋敷に車で駆けつけ、虞卿の意見に対し異議を唱えた。「わが君がこれまで、宰相になることができましたのも、領地を得ることができましたのも、趙でもっとも才能や功績がある人物だからというわけではありません。ただ、王の親戚だからというまでです。そのうえで(下々の者と同様に)才能や功績を理由に領地を受け取っては、かえって不利になりましょう。しかも、仮に成功したとしても、虞卿めはこれを恩に着せる魂胆でしょう」平原君はこの意見を取り入れ、虞卿の申し出を断った[6]。
『呂氏春秋』の諸篇によれば、燕の昭王に「偃兵」(非戦・休戦[7])を説いた後、趙の平原君の食客となり、恵文王に「偃兵」「兼愛」を説いたという。この二つは墨家の思想的特長とされるものでもある。
『公孫龍子』では、「白馬非馬説」すなわち「白とは色の概念であり、馬とは動物の概念である。であるから、この二つが結びついた白馬という概念は馬という概念とは異なる」という論や、「堅白論」すなわち「白くて固い石は手で触っているときには白いということは解らず、目で見ているときには硬いということが解らない。すなわち、白いという概念と硬いという概念は両立しない」という論などを説いている。
『韓非子』外儲説左上篇では、兒説という人物が白馬に乗って関所を通る際、「白馬非馬説」を用いて馬の通行税を免れようとするものの、役人が頑として聞かず、結局は税を支払ったという。別の書物では、公孫龍も同じようなことをしたという[8][9](『白孔六帖』巻9所引の『新論』など)。
『史記』平原君虞卿列伝によれば、陰陽家の鄒衍が趙に来て、平原君の面前で「白馬非馬説」などを無用な学説として非難し、「至道」の説を唱えてからは、平原君の寵愛を失い、趙を去ることになったという[10]。その後の行方は知れない[4]。
いずれも名前を借りただけのオリジナルキャラクターに近い。
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