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全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言

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全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言
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全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言(すべてのきょうこうにかんするだいしきょうせいマラキのよげん、Prophetia S. Malachiae, Archiepiscopi, de Summis Pontificibus)は、12世紀北アイルランドの都市アーマーの大司教聖マラキ(マラキアス)が行ったとされている、歴代ローマ教皇に関する予言である[注釈 1]。本記事名は現在確認されている範囲での初出に当たる『生命の木』(1595年)に採録されたときのものだが、一般には単に「聖マラキの予言」「教皇(について)の予言」などと呼ばれる。実際には1590年に作成された偽書と見なすのがほぼ定説となっており、その立場からは「偽マラキの予言[1][注釈 2]と呼ばれることもある。

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『生命の木』(1595年)に掲載された聖マラキの予言の一部

概要

これは、1143年に就任した165代ローマ教皇ケレスティヌス2世以降の、対立教皇10人を含む[注釈 3]111人(または112人かそれ以上)の歴代教皇についての予言である。

予言は2語から4語の極めて簡素なラテン語の標語111個と、112番目に当たる最後の散文によって構成されている。標語は原則として教皇が就任した順に並んでおり、該当する教皇の就任前の姓名、紋章(家紋や出身都市の市章などを含む)、出身地名、家柄、性格、在位期間の特徴的な事件などのいずれか1つないし複数を予言しているとされる[注釈 4]。一部の終末論者やそれに便乗する文献などは、同予言書で111番目に当たる教皇のとき、またはその次の教皇のときに何らかの激変が起こるのではないかという形で採り上げてきた。

しかし、この予言が最初に公刊されたのはマラキの死から450年近く後の1595年のことであり、それ以前の時代において予言の存在を示す情報は伝聞レベルですら一切確認されていない。当時の時代状況や似たような偽予言群の存在などから、1590年のコンクラーヴェにあわせて偽作された予言であることがほぼ定説化している。

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最初の公刊と時代背景

要約
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聖マラキの立像。彼を取巻く同時代人の中に、この予言について言及した者はいない。

1595年ベネディクト会修道士アルノルド・ヴィオンが、ヴェネツィアで刊行した著書『生命の木』(Lignum Vitae) に収録したのが、この予言の初めての公刊であった[2]。信奉者寄りの著書では、バチカンの文書保存庫からヴィオンが見つけ出したとされることもあるが[3]、ヴィオン自身は『生命の木』で「その予言を知ったが、まだ公刊されていないようだから収録した」という趣旨のごく簡単な説明しか行わず、詳細な出典については何ら触れていない[4]バチカン図書館側でも詳細な調査が行われたが、この予言についての記録はついに発見されなかったと指摘されている[5]

現在では、最初にこの予言が創られたのは1590年と考えられている[6]。実際、『生命の木』では過去のものとなった標語にラテン語で「解説」[注釈 5]がつけられているが、それはウルバヌス7世(在位1590年)までで止まっている。ヴィオンは解説の著者として、スペイン人のドミニコ会士アルフォンソ・チャコンの名を挙げているが、チャコン自身の書き物ではこの解説に触れているものが一切ないため[7]、真偽は定かではない。

偽作の直接的な動機としては、ウルバヌス7世の次の教皇に当たる標語が『町の古さによって』(75番)となっていることから、オルヴィエート(「古い町」が語源とされる)の司祭だった枢機卿ジロラモ・シモンチェッリ英語版を教皇にしようとしたものではなかったかと考えられている[8]。偽作者は特定されておらず、明確な根拠が示されているわけではないが、最初の紹介者であるヴィオン自身が偽作したわけではないだろうと見るのが一般的である[9]。ヴィオンが示した原文が初出となっているが、彼が依拠したはずの写本は見付かっていないため、オリジナルに忠実かにも議論がある。1598年に出されたロベルト・ルスカの版(ラテン語の標語にイタリア語の解釈が付いている)はその内容からヴィオンをそのまま踏襲していないと判断する者もおり、その立場ではルスカもヴィオン以前の資料を参照しえたのではないかと指摘されている[10]。また、題名についても、1624年にトマス・メシンガムが紹介した時には、マラキの肩書きが単に「大司教」ではなく、「アーマー大司教」「教皇特使」などとより詳しい形で書かれており、初期の版には揺れがあった[11]

さて、歴代教皇を順に予言するというスタイルは、16世紀にはおなじみのものだった。中世に出現した図像と文章を組み合わせた予言書『全ての教皇に関する預言』の亜流として、16世紀頃の歴代教皇を予言するといった体裁の偽書がいくつも出ており、マラキの予言以外に少なくとも9種が存在していた[12]。なかでも、1589年(マラキの予言が偽作されたと考えられている前年)には、『大修道院長ヨアキムの予言』と称するピウス4世(在位1559年 - 1565年)以降の歴代教皇を予言するとした偽書も出現しており、これがマラキの予言のモデルになったという説もある[13]。歴代教皇を対象とする偽予言は、シクストゥス5世(在位 1585年 - 1590年)の在位期間前後に多く出されていたことも知られている[14]

また、マラキの予言が偽作されたと考えられている1590年には、同じ教皇選挙に関連して『ウルバヌス7世の後継者に関する神々しきビルギッタの予言』 (Prophetia Divae Brigittae...in succesorem Urbani VII) など、ほかの予言者に仮託した偽書も刊行されていた[15]。1590年のコンクラーヴェを対象とした偽予言群の存在は、スペイン国王フェリペ2世が教皇選挙に積極的に介入していた状況や、フランスでのカトリック同盟アンリ4世の対立が激化していた状況など、1590年当時の諸状況に影響された政治的動機によって生み出された可能性も指摘されている[16]

ちなみに、このとき実際に選ばれた教皇はオルヴィエートのシモンチェッリではなく、元ミラノ大司教のグレゴリウス14世であった。しかし、信奉者たちは、『町の古さによって』がグレゴリウス14世を的中させていると主張してきた(解釈例は後述)。

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解釈をめぐる論争

要約
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クロード=フランソワ・メネストリエ
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モレリの『歴史大事典』(1740年版)

この予言に関しては、初出から100年近く後になって、イエズス会士のクロード=フランソワ・メネストリエフランス語版が初めて本格的な偽作説を提示した。『誤って聖マラキに帰せられている教皇選挙に関する予言への反駁』(1689年)などのパンフレットで示された彼の指摘はその後の偽作説の基盤となり[17]、それをさらに敷衍したのが神学博士のルイ・モレリフランス語版(1643年 - 1680年)であった[18]。モレリはその大著『歴史大事典』(初版1674年、死後も増補された)の聖マラキの項において、信奉者側の解釈も含めたマラキ予言の紹介と包括的な批判を行なった。彼らの批判の要点は、前述したシモンチェッリ関連を除くと、おおよそ以下のようにまとめることができる。

  1. 1595年以前の伝聞が存在しない[19]
    マラキの予言は1595年に公刊されるまで、誰一人として言及していなかった。マラキと交流があった同時代人クレルヴォーのベルナルドゥスはマラキの伝記をまとめ、彼に予言の才能があったと紹介しているが、そのベルナルドゥスですら教皇に関する予言について何も語っていない[20][21][注釈 6]。また、ローマの動向を聞き及ぶことができたはずの同時代の各地の著名な聖職者たちの証言もいっさい見当たらない[20][21]
    教皇についての歴史や年代記を執筆した人々はマラキの死後何人も出ているが、彼らの著書でもいっさい触れられていない。特にヴィオンが解説者として言及しているチャコンは、歴代教皇の生涯について書いているにもかかわらず、そこでも一切の言及が見られない[20][21]
    アイルランドの著述家たちには、母国の聖人伝のようなものをまとめた人々がいるが、彼らも誰ひとり言及していなかった[20][22]
  2. 1595年以前の教皇の配列がおかしい。
    対立教皇が10人含まれているが、その標語の中で「スキスマ」(分裂)やその類語を用いて対立教皇であることを明示しているのは2人だけで、あとは正式な教皇と入り混じっている[20]
    さらに、対立教皇の配列順が年代的に誤っている。マラキの予言では、一般的なローマ教皇の一覧に比べて、順序の異なっている箇所が2箇所ある。まず、標語6番から8番は3人の対立教皇にあてられているが、彼らは9番に当てはめられているアレクサンデル3世の選出に反対した3人の枢機卿が順に立ったものなので、アレクサンデル3世を先に置くのが一般的である[20][23]。また、アレクサンデル3世に反対した4人目の対立教皇であるインノケンティウス3世が抜けている。こうした不適切な配列は、16世紀の年代記の誤りを引き写した可能性が指摘されている[23][24]
    42番から51番はいわゆる教会大分裂期の教皇であるが、アヴィニョン選出の対立教皇(42-44番)を最優先するという明確な意図が読み取れる[25]。ついでローマ選出の教皇(45-48番)、ピサ選出の対立教皇(49-50番)の順になっているが、この結果、対立教皇クレメンス8世(44番)よりもマルティヌス5世(51番)の方が7つも後という、変則的な配列になっている[20][23](マルティヌス5世が選出されたコンスタンツ公会議で、当時のアヴィニョン教皇であったベネディクトゥス13世は強制的に廃位とされた。その没後アヴィニョンで立った対立教皇がクレメンス8世である)[注釈 7]
  3. 1595年以前の予言については、事実関係に誤りが含まれている。
    以下のリストで見るように、16世紀当時には正しいとされていた情報に基づいて予言が書かれているが、のちに誤りであると判明したり、事実か疑わしくなっている事柄が含まれている[26][27]
  4. 標語があまりにも漠然としすぎている。
    現代でも1595年以降の曖昧さはしばしば批判されるが(後述)、メネストリエは1595年以前についても、短い標語にすぎないのだから、こじつければほかの教皇にも十分に適合することを実際に示した。たとえば、『追い払われた敵』(2番)は、標語の対象時期直前の対立教皇アナクレトゥス2世(在位1130年 - 1139年)によく当てはまる。彼はローマ市民らの支持は取り付けていたが、有力者らからは徹底的に批判され、その死後、クレルヴォーのベルナルドゥスは別の聖職者に「敵が追い払われた」という趣旨の言葉を書き送ったからである[28]。また、現在の予言書で『追い払われた敵』に対応しているルキウス2世は、『山の大きさ(偉大さ)によって』(3番)に当てはめてもおかしくない。彼はエルサレムの聖十字架修道参事会員などだったことがあり、エルサレムのゴルゴタの丘イエス・キリストの磔刑が執行された大いなる丘(小山)だからである[28]。メネストリエはこんな調子で序盤の予言の対応関係を次々に入れ替えてみせた[28]

こうした偽書説に対し、19世紀後半になるとパレ=ル=モニアルフランス語版の病院附司祭でオータンの名誉参事会員だったフランソワ・キュシュラ (François Cucherat) が、マラキの予言は真作であるという立場から擁護論を展開し、マラキは苦境にあったインノケンティウス2世を励ますために予言を献上したが、それ以降バチカンで秘匿され続けたために、同時代やそれ以降の証言が一切ないのだとした[29][30]。この擁護論は後にカトリック百科事典の「予言」の項でも引き合いに出されることになるが[29]、それに対しては、アルスターのカトリック司祭[31]であったM. J. オブライエンが『いわゆる聖マラキの予言に関する歴史的・批判的報告』(1880年)の中で反論し、キュシュラが主張した話の信憑性に疑問を呈するとともに[30]、ひとつひとつの標語について信奉者側の解釈を紹介しつつ、懐疑的な検証も行なった。

その後も神学博士・哲学博士のカトリック神父ジョゼフ・メートルが、1901年から1902年にかけて2冊の大著をものして擁護論を展開するなどしたが[17]、少なくとも従来の百科事典や人名事典、キリスト教やカトリックに関する専門事典などでは、16世紀に捏造された偽書として扱われるのが普通である[32][注釈 8]。東京のフランシスコ会聖アントニオ神学院教授、同校長などを歴任したカトリック神父のセラフィノ・フィナテリも、19世紀ドイツの神学者アドルフ・フォン・ハルナックの見解を引き合いに出しつつ、偽書と断じた[33]。また、オックスフォード大学のセント・アンズ・カレッジ副学寮長だった宗教史家のマージョリ・リーヴスや、予言テクストの史的分析によってパリ第10大学博士号を取得したジャック・アルブロンフランス語版といった歴史学者たちも、その偽作された背景に関する分析などを展開した[34][注釈 9]。アルブロンはフランス国立図書館が1994年1月から2月に開催した展示会「占星術と予言」にも関わっており、同展示会のカタログでは、聖マラキの予言関連の文書は中世の『全ての教皇に関する預言』の流れを汲む偽書およびその解釈書と位置づけられていた[35]。フランスの超領域学術研究国際センター研究員で宗教心性史などが専攻のジョルジュ・ミノワフランス語版も、やはり偽作という立場で言及している[36]。ほかにサクラメント・シティ・カレッジ英語版名誉教授の哲学者ロバート・キャロルは、疑似科学方面への懐疑的項目を多く収録した著書『懐疑論者の事典』の「マラキ・ウア・モルガイル大司教」の項目において、偽書かどうかは断じていないが、信奉者的な立場から解釈する行為を「靴べら的行為」[注釈 10]のひとつと位置づけている[37]

偽作説が有力視されるようになってからも、通俗的な信奉者たちは予言解釈を積み重ね、それぞれの標語が教皇自身や歴史的事件を的中させていると主張してきた。そして、ヨハネ・パウロ2世(就任順から110番目の標語に対応する)が在位している頃までは、在位年数の平均などを元に、マラキの最後の予言(ローマ教会または世界の破滅)が1999年頃に実現すると考える者たちもいた。その結果、ノストラダムス予言にある1999年の恐怖の大王による破局と重ねて解釈されることもしばしばであった[38]。ヨハネ・パウロ2世の在位期間は長期にわたったが、112番目を1999年と重ねて解釈する論者にとっては、彼が早く退位しないと都合が悪い。そこで、1990年代の予言信奉者たちには、ノストラダムス予言などの解釈結果として、ヨハネ・パウロ2世が1999年以前に暗殺されて、次の教皇が即位するなどと主張する者も少なからず見られた[39]。1999年が何事もなく過ぎると、今度は2012年人類滅亡説が広まるに従い、その種の予言解釈本やオカルト雑誌『ムー』の増刊などでは、マラキの予言が示す最後の時期も近く訪れるという形で紹介されることもしばしばであった[40]

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歴代教皇の肖像画が掲げられているサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂

なお、信奉者のダニエル・レジュは、ローマのサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(19世紀に焼失したのち再建)の歴代教皇の肖像画を掲げるスペースが、ヨハネ・パウロ2世の時点で、彼のほかにあと1人分しか空いていないとして、大聖堂を再建した時点での教皇庁が聖マラキの予言を信じていた証拠だと主張していた[41]。日本の関連文献にはこれをそのまま紹介しているものもあったが[42]、懐疑主義者団体ASIOS原田実は逆に、ベネディクト16世の時点でさえもまだ何代分もの空白があり、聖マラキの予言が教皇庁では気にかけられていない証拠ではないかと主張している[43]

現在の偽作説では、どのような方法で偽作されたのかについても仮説が提示されている。まず、予言の標語(最後の散文を除く)が111あるのは、1590年の段階で過去に当たっていた74人分に、その半分(37人分)を付け加えただけに過ぎない[44]。単純に計算した場合、(1143年から1590年向けの半分であるので)19世紀初め頃までの予言しか想定していなかったことになるが、これは終末がそう遠くないと考えられていた16世紀当時の予言的言説と整合的である[45]

さらに、そうして作成された1590年の段階で未来に当たっていた予言句は、16世紀当時に知られていた聖書外典や予言書のテクストから安直に単語を拾い集めて捏造されている可能性がある。一例を挙げるなら、『天使的牧者』(106番)は、ヨハン・リヒテンベルガー英語版の占筮第36章に出てくる天使教皇たち(終末に天から遣わされると考えられた中世の伝説的教皇で、「天使的牧者」とも呼ばれた)についての記述から借用されている可能性がある[46]。また、同章で言及されている、後を継ぐ3人の聖者のうち、「船乗りと呼ばれることになる」1人目は『牧者にして船乗り』(107番)の、「太陽が高揚の位置にある時に現れる」3人目は『太陽の労働によって』(110番)の、それぞれ基になった可能性があると指摘されている[46]

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予言一覧

要約
視点

以下に予言の一覧を掲げる。便宜的に現在一般的に通用している番号をつけたが、本来の予言には番号がいっさい付いていない。また、就任前の姓名については、原語での言葉遊びになっている事例が複数あることから、カナ表記に直していない。

1番から74番

1590年のウルバヌス7世に対応する74番までの標語には、初出である『生命の木』に収録された時点で、対応する教皇の名前と簡潔な解説がつけられていた[47]。以下では、標語、教皇名、解説を原典どおりに記載する。解説欄のかぎ括弧は、初出の解説の和訳である。解説は適宜、後代の解釈や批判を織り交ぜているものもある。

さらに見る 当初から解説付きの予言(1143年 - 1590年), 番号 ...

75番から111番目まで

グレゴリウス14世(在位1590年 - 1591年)に対応する75番よりも後の予言には、初出の時点で解説がついていなかった(公刊された1595年までに対応する75番から77番の標語には、教皇の名前だけは添えられている)。以下では、75番から111番までの標語とその解釈例や懐疑派による批判を挙げる。16世紀以降に対立教皇は存在しないので、教皇の配列には信奉者側にも懐疑派にも異論は見られない。

懐疑派は、当初から解説が付けられていた1590年までの予言に比べて、それ以降の予言では地名や姓名などを織り込んだ具体的な標語が激減している上、苦しい解釈が多くなっていると指摘している[154]。また、結果として、ある教皇によく当てはまるとされる予言が、別の教皇にも同じ程度に当てはまる例もしばしば見られる[155]

さらに見る 1590年以降の予言, 番号 ...

最後の予言

111番目のあとに書かれているのは次の二文である。上の表と同じく原典のまま記載するが、1点だけ文字表記の制約上、忠実に再現できていない(後述の注釈を参照)。

  • 「ローマ聖教会への極限の迫害の中で着座するだろう」(In psecutione. extrema S.R.E. sedebit.)
  • 「ローマびとペトロ、彼は様々な苦難の中で羊たちを司牧するだろう。そして、7つの丘の町は崩壊し、恐るべき審判が人々に下る。終わり。」(Petrus Romanus, qui paſcet oues in multis tribulationibus : quibus tranſactis ciuitas ſepticollis diruetur, & Iudex tremẽdus iudicabit populum ſuum. Finis.)

以上の二文は初出である『生命の木』や1598年のルスカの版では二段落に分かれていた。これを一段落にまとめたのは、1624年のメシンガムの版が最初であり、以降その読み方が主として信奉者の間では踏襲されており[256]、まとめて112番目と位置づけられることがしばしばである[257]

これをひとまとまりの予言ととらえ、信奉者たちは112番目の教皇のときに世界最終戦争が起こるのではないかとか[258]、112番目はコンクラーヴェを経ないで教皇を僭称する人物になるのではないかとか[259]、教皇庁から公認されることのないその人物こそが反キリストなのではないか[260]などと解釈してきた[注釈 18]

しかし、もとが二段落になっていることから、信奉者の中には『オリーブの栄光』の後に『迫害の中で』(In persecutione) と『ローマびとペトロ』(Petrus Romanus) に対応する2人の教皇が控えていると解釈する者もおり、今後、世界の終末やローマ教会の終焉が起こらなかったときに、さらに細分化させていって標語を増やし、予言の延命を図る信奉者が現われるのではないかとも推測されている[261]。また、「迫害の中で」という条件付けなどから、111番目の『オリーブの栄光』と112番目の『ローマびとペトロ』の間には、まだ何代もの教皇が存在している可能性があるとして、『オリーブの栄光』から『ローマびとペトロ』に直結させない読み方も古くから提示されている[262][29]。似たような読み方としては、現在では「迫害」(persecutione) の略と見なされている語が、初出では psecutione.と表記されている[注釈 19]ことから、prosecutioneの略と見た上で、現在では無視されているピリオドも活かし、「(予言はここで)区切り。ローマ聖教会は終末までその地位にあるだろう」と意訳する者もいる[263]。この読み方の場合、112番目の予言で終末が来るとは解釈できず、111番目の後にローマ・カトリックがいくらでも続くと解釈できることになるという指摘もある[264]

根本的な点として、偽書説では、112番目とされるフレーズは予言としてでなく、結語のような注記として書き加えられたもので、聖マラキに帰せられている予言の部分には含まれていなかったという見解もある[265]

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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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