光岡 龍三郎(みつおか りゅうざぶろう、1901年3月15日 - 1961年8月4日[1])は、日本の俳優である[2]。新字体光岡 竜三郎、本名は中澤 喜一(なかざわ きいち)である[1][3]。
来歴
1901年(明治34年)3月15日、北海道亀田郡大野村(現在の北斗市大野地区)に「中澤喜一」として生まれる[1]。11歳上の兄に俳優の葛木香一がいる[2]。
当初舞台劇の俳優であったが[3]、1924年(大正13年)、東亜マキノ等持院撮影所に入社し[1]、映画俳優に転向する。翌1925年(大正14年)、阪東妻三郎主演、二川文太郎監督の『江戸怪賊伝 影法師』前篇・後篇等に出演する[1]。二川監督の『墓石が鼾をする頃』に出演した後、牧野省三らは東亜キネマと分離するが、光岡は東亜キネマに残る[1]。1926年(大正15年)、高木新平主演、仁科熊彦監督の『帰って来た英雄』前篇・後篇に出演、中国人役を演じて注目される。同役で「和製ワーナー・オーランド」との賞賛を受ける[1]。同年、村越章二郎監督の『鳴門秘帖』では主役に抜擢された[1]。以降、東亜キネマの主力の剣戟俳優となった[1][3]。1928年(昭和3年)1月27日、若木染と結婚、染との間にその後6男6女をもうける[2]。そのうち長男中澤光喜は、長じて録音技師となった[2]。
1929年(昭和4年)、日活太秦撮影所に移籍した。1936年(昭和11年)からは、牧野省三の長男・マキノ正博(のちのマキノ雅弘)のマキノトーキー製作所に所属した。同社の崩壊後は、新興キネマに移籍、1942年(昭和17年)、第二次世界大戦の戦時合併以降は、そのまま大映京都撮影所に戦後まで在籍した。
人物・エピソード
昭和10年の『追分三五郎』の撮影で、光岡竜三郎は清水の次郎長に扮したが、監督の辻吉朗も光岡も、秋田弁のきついほうだった。 光岡が「このスムズのズロツォーが(この清水の次郎長が)」とやったところ、辻監督は怒って「ミチオカくん! これはトウガイドウのハナスだよ(光岡くん! これは東海道の話だよ)、スムズじゃない、スムズのズロツォーだ」と教えた。
これに恐縮した光岡は、「わかりました。このスムズのズロツォーが・・・」とおうむ返しに辻監督にそう答えたという[4]。
おもなフィルモグラフィ
- 『江戸怪賊伝 影法師』前篇・後篇 : 監督二川文太郎、1925年
- 『墓石が鼾する頃』 : 監督二川文太郎、1925年
- 『女と侠客』 : 監督松屋春翠、1925年
- 『帰って来た英雄』前篇・後篇 : 監督仁科熊彦、1926年
- 『鳴門秘帖』 : 監督村越章二郎、1926年
- 『中山安兵衛』 : 監督村越章二郎、1927年
- 『王政復古』前篇・後篇 : 監督長尾史録、1927年
- 『阪東侠客陣』第一篇・中篇・最終篇 : 監督仁科熊彦、1928年
- 『高山彦九郎』 : 監督後藤岱山、1928年
- 『怪盗石川五右衛門』 : 監督仏生寺弥作、1931年
- 『女侠客奴の小万』 : 監督広瀬五郎、1936年
- 『刀を抜いて』 : 監督松田定次、1937年
- 『旗本八萬騎』 : 監督中川信夫、1937年
- 『静御前』 : 監督野淵昶、1938年
- 『阿波狸合戦』 : 監督寿々喜多呂九平、1939年
- 『続阿波狸合戦』 : 監督森一生、1940年
- 『照る日くもる日』 : 監督仁科紀彦、1940年
註
参考文献
関連事項
外部リンク
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