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文字記録が残っていない時代 ウィキペディアから
先史時代(せんしじだい、英: Prehistory、羅: præ=の前 + 希: ιστορία=歴史)は、「歴史時代(有史時代)」以前の歴史の時代区分に当たり、文字を使用する前の人類の歴史である[1]。1838年にスウェーデンのスヴェン・ニルソンが著した『Skandinaviska Nordens Urivanare,Lund (北欧スカンディナヴィアの原住民)』において用語「forhistoria (先史)」を用い[2][注 1]、1851年にダニエル・ウィルソンが著作『The Archaeology and Prehistoric Annals of Scotland (スコットランドの考古学と先史時代の年代)』で英語圏に紹介し[2]、1865年にジョン・ラボックが『Pre-historic Times (先史時代)』を発表[3]して以来、英語の単語として「prehistoric」が広く使われた[4][5]。
先史時代の対象範囲は、定義に忠実ならば宇宙開闢以来の時間範囲が該当する。しかし一般的には地球上で生命誕生が起こってからの時代が取扱われ、特に人類が出現してから以降と捉えられることが多い[6][7]。この人類発祥後の時代は三時代法というそれぞれの時に使われた主要な道具類の種類に基づく石器時代(旧石器時代、新石器時代[8])、青銅器時代、鉄器時代という連続した時間ごとの時代区分が用いられ、それ以前は地層が形成された時期を元とした層位学的地質記録に基づいて地質時代単位で分けられる。ただし、マカリスターなどは石器時代に先行する加工性に優れる木材を利用した木器時代を提唱し、また人類史において道具を使わない時代というものも想定される[9]。また、新石器時代と青銅器時代の間に銅器時代が入る場合もある。
「先史時代」と「歴史時代」を明瞭に区別する基準は、その時期に記された文献の存在有無による[10]。文字が初めて用いられたのは地域によって異なるが青銅器時代後期から鉄器時代中期の頃と分析されており、この時期から地域的な有史時代が始まる。しかし、先史時代と有史時代との間には神話や伝承など口述記録が伝える「原史時代」または「中間時代」 (Intermediate Age) も置かれる[10]。そのため、歴史家は文字記録だけに頼らず、考古学に代表される自然科学や社会学的分析を取り入れて、太古の歴史に対する解析を行う[10]。
定義において文書記録が無いとされる先史時代は、それを取り扱う際に時代の見極めが特に重要となる。しかしはっきりとそれを断定できる手法は19世紀になるまで開発されていなかった[11]。そのため、初期の先史時代研究は、発掘・地質および地理調査・自然や文字を持たない民族の習慣を分析するなどの、考古学や形質論的人類学に頼らざるを得なかった[6]。また、遺伝学者による人口分布や歴史的な言語学もこの研究に見識を提供した[7]。文化人類学は婚姻や貿易の起源や波及の様子を知らしめ、先史時代の人類がどのような文化背景の中にあったかについて豊富な情報を提供した[7]。この他にも、古生物学、生物学、花粉学、天文考古学、比較言語学、人類学、分子遺伝学など多くの自然科学・社会科学が先史時代分析に情報をもたらした。
先史時代における人類の歴史は、記録された編年的歴史だけでは判断することは不可能であり、もっぱら遺跡や遺物などの発掘を通じた考古文化的分析から得ることになる[12]。
先史時代の終わりについても、有意な学術的歴史記録が発生する時期という点で見る限り、地域ごとに異なってくる。例えば、エジプトは紀元前3200年頃には記録が作られ始めるために先史時代は終焉したと言えるが、ニューギニア島は同様の意味では紀元後の1900年前後に先史時代を終えたと言わざるを得なくなる。アメリカ大陸についても、以前はクリストファー・コロンブスによる発見以前を「先史時代」と扱うこともあった[13]。
アウグスト・シュライヒャーとフリードリヒ・マックス・ミュラーは言語学の観点から先史時代と有史時代を区分した。これによると、先史時代の言語とは単独の音節を並べるような状態から膠着や屈折などの形態を持つに至る段階であり、これが権力の発生とともに文法の整理など共通言語としての体裁が整いつつ文字言語が成立したという。マラメルによると、これらは人間集団の知性が言語に及ぼす変化について、法則的に説明する試みである[14]。
猿から進化して人類が誕生した時期は、約400万年前と言われる。最古の人類化石はアウストラロピテクスなど猿人であり、彼らは二足歩行をして非常に簡単な石製道具を使用した[15]。彼らの発生や進化の過程には様々な説が提示されている。
「旧石器時代」 (Paleolithic) は「石器時代の古い頃」を意味し、石を道具として用い始めた時期を指す石器時代の初期に当たる時代区分となる。これもさらに区分され、初期に当たる前期旧石器時代はホモ・サピエンスの前段階に当たるホモ・ハビリス(と近縁種)が石器類を使い始めた約250万年前頃に相当する[16]。
初期のホモ・サピエンス登場は、約20万年前の中期旧石器時代となり、彼らは初歩的な言語を扱うのに充分な能力を獲得する変化が、頭蓋骨の顎部骨格を分析した結果から認められた[17]。出アフリカを果たす7万から5万年前には、彼らが使う石器や骨角器など使用する道具類は精巧で種類も豊富になり[18]、埋葬[15]や原始的な音楽[19]が見られるようになった事も中期旧石器時代の特色である。 中期旧石器時代の文化は主にホモ・サピエンスが担ったが、ネアンデルタール人やデニソワ人も一部共存していた。
芸術は約3万年から約1万年前の後期旧石器時代には始められていたと言われる。フランスのラスコー洞窟の壁画やヴィレンドルフのヴィーナスが製作されたのもこの時期に相当する。また、数の概念もつくられたらしく、コンゴ民主共和国で出土したヒヒの骨に刻まれた記号は最古の数表現と思われる。[16]
旧石器時代に人類は、狩猟採集社会[20]で遊牧民的な生活を送っており、その社会も非常に小規模で平等なものだったが、豊富な食糧調達が可能なところや、貯蔵方法の発展によって首長や社会階層を持つような複雑な共同体を構成していたところもあった。
「中石器時代」(Mesolithic, Middle Stone Age) は、石器時代の中ごろに当る約20,000年前から約9,000年前の時期[16]を指すが、これは人類の技術発展に基づいた区分である。この時期は約10,000年前に当たる更新世の終わり頃に始まり、地域によって様々な農耕の導入を終わりの契機とする。
近東など一部地域では、更新世の終わり頃には農耕が始まっており、そのようなところでは中石器時代の定義は短い期間のあやふやなものになる。また氷河の影響を受ける地域では「亜旧石器時代」もしくは「末期旧石器時代」という用語が適する。逆に第四期氷河時代終焉によって自然環境が好転する恩恵を受けた地域は、はっきりした中石器時代を迎えた。北欧では、広がる湿地帯から食糧をたくさん得ることが出来た。同様に、マグレモーゼ文化やアジール文化なども豊富な資源を背景に人類が発展を見せた。ヨーロッパ北部ではこのような時代は6000年前まで続いた。
この時代の遺跡は少なく点在状態にあり、古代のごみ捨て場である貝塚程度しかめぼしいものが見つからない場合もしばしばである。しかし貝塚はその当時の生活様式に関する情報を与える。食糧は貝殻類に限らず動物や鳥類の骨など、また既に犬を飼う習慣を持っていた事、時に人骨や石器類も発見される[21]。
多くの地域で、中石器時代を特色づけるものは小さな燧石を用いた道具類であり、細石器やマイクロビュラン、漁具、石製手斧などがある。また、場所によってはカヌーや弓なども木製具も発見されている。このような技術はアフリカのアジール文化で起り、北部アフリカのイベロ-マウリシオ文化やレバントのケバラン文化を通じてヨーロッパに伝わった。この他にも独立した発見も無視されてはいない。
「新石器時代」は、原始的な技術や社会構造が発達し、石器時代にピリオドを打つ時代である。人類は環境適応能力の高さを発揮し、生活領域を拡大し、狩猟社会だけでは利用できなかった生活資源を活用し始めた[20]。約9,000年前に始まる[16]この時代には村落の形成や農耕、動物の家畜化、道具類の発展、巨石建造物[16]、そして戦争の痕跡が確認できる。この用語「新石器時代」は、通常では旧世界を指し、アメリカ大陸やオセアニアなどで結果的に金属加工技術を発生させなかった文化段階をも指して使われる。
古い土器は、日本の縄文土器やバイカル湖周辺など紀元前13000年頃には製作が始まり[23][24]、乾燥地帯では紀元前6000年頃と推測されるメソポタミア最古の土器[25]などに先行していた。製作方法も当初の手こねから、型に嵌めるもの、そしてとぐろ巻きなど進化し、合わせて装飾や彩色も発展した[26]。
土器は主に貯蔵や調理または食器として用いられ、やがて用途が広がり鑑賞や埋葬用などにも使われるようになった。これら土器の特徴を分析することは、社会集団の発展や交流などを突き止める手がかりとなる[27]。
発祥から先史時代前半までの人類は、生存能力に劣り常に滅亡の可能性に晒されていた。火を使い加工する手段を得てはいたが、食糧は多くの植物性およびわずかな動物性食物に頼り、常に飢餓の危険にさらされながら、より住みやすい土地を求めて移動を繰り返していた[28]。そのため、集団の信仰や習俗には多産を祈念し推奨する要素が多く生じ、またジェンダーの観念も生殖に重きが置かれていた。この停滞状態を脱し、人口が増加に転じた主たる理由は、農耕や牧畜など食糧生産手段の変革[20]があった。[29]
先史時代の研究家ヴィア・ゴードン・チャイルドが提示した「新石器革命」(農耕革命)の概念によると、紀元前1万年から紀元前8000年頃にシュメールで農耕が始まり、紀元前9500年から紀元前7000年頃にはインドやペルーでもこれと独立に行われ始めたという。さらに紀元前6000年頃にはエジプト、紀元前5000年頃には中国、そして紀元前2700年頃にはメソアメリカで農耕は広まった。
中東の肥沃な三日月地帯が重視されがちだが、複数の作物や家畜を育成する農耕システムは考古学的分析からアメリカ州や東アジア・東南アジアでもほぼ同時期か若干早く発生していた。シュメールでは紀元前5500年頃には組織化された灌漑や専従労働も始まっていた。それまで集落が依存していた岩石を用いた石器は青銅器や鉄器に取って代わられ、これら新しい道具は農作業のみならず戦争にも使われるようになった。ユーラシア大陸では銅や青銅の道具が発達し、紀元前3000年頃に地中海沿岸東部で発明された製鉄技術は中東を経由して中国まで伝わり、農具や武器へ利用された。
アメリカ大陸では金属器の発展は遅く、紀元前900年頃のチャビン文化勃興を待たねばならなかった。モチェ文化では金属は武具やナイフ・器などに用いられ、金属資源に乏しいインカ文明でも、チムー王国に征服された頃までには金属片をつけた鋤が実用化されていた。しかしその一方で、ペルーでは考古学的調査の進捗は限定的であり、古来の記録媒体であったキープはスペインのインカ帝国征服によってほとんどが焼却されてしまい、資料に乏しい。ほとんどの都市遺産は未だ発掘されていない。
メソポタミアのユーフラテス川やチグリス川、エジプトのナイル川、インド亜大陸のインダス川、中国の黄河や長江のように文明の揺りかごは川や谷が担った。一方、オーストラリアのアボリジニや南アフリカのサン人のような遊牧的な民族は、農耕を自文化に取り入れた時期は比較的近年になってからのことである。
農耕はその作業において分業を促進し、そこから複雑な社会構造とも言える文明を作り[30]、国家や市場を形成した。技術は自然を利用する術を授け、交通や通信手段を発達させた。
青銅器時代は三時代法のひとつに数えられ、いくつかの文明において新石器時代の次に到来した。ただし金属製錬そのものは新石器時代に発明されたものと考えるべきであり、金属器が広まるまでの間には「金石併用時代」(Enenlithio Age) または「石青鋼期」 (Stone-Bronze Period) と呼ばれる過渡期が存在した[31]。
この時代には人類の文化が発達し、露天状態の鉱石から銅やスズを精錬し、合金である青銅を成型する金属加工技術が体系化され、広範囲に伝播した時代を指す。紀元前3000年頃までの西アジアで作られた青銅器に銅/スズ合金が無い点から分かる通り、自然状態の銅鉱石は多く不純物として砒素を含み、銅/スズ原鉱は稀少だった。青銅は「形の表現において適切であり扱いやすい」[2- 1]8性質を持ち、数々の道具や武器および装飾品などが作られた[32]。
青銅器時代は筆記が発明され、初期の記録が為された時代でもある。最古の歴史記録のひとつであるメソポタミアでは、紀元前2600年頃のシュルッパクの粘土板に刻まれた文字が発見されている。これらは主に行政・財政上の収支や土地配分などの記録であったが、当時の社会体制を知ることができる点では歴史記述のひとつとみなすことができる[33]
考古学では「鉄器時代」とは鉄冶金技術が実現した時代区分を指す。鉄の使用は農作業の効率を高め、信仰や芸術の発展など文明へ大きな革新をもたらした。そうして、哲学史的にも「枢軸時代」と呼ばれる世界同時的な変化を生んだ。
古代インドや古代ギリシア・ローマでは、歴史とは繰り返すものという円環的時間概念があった。ギリシアのトゥキディデス、ピュタゴラスはこの考えを前提に置き、プラトンは『テアイテトス』にて歴史が循環する期間を36,000年と試算し、これは「プラトン年 (Platonic Year) 」または「プラトン的転回 (Platonic Revolution)」と呼ばれる。この流れを受けてローマのクリュシッポス、ストア派のエピクテトス、マルクス・アウレリウス・アントニヌス(『自省録』第七巻)そしてポリュビオス、アリストテレスらも歴史を循環するものと捉え[3]、未開の時代は想定されなかった。
ケルト人は文字をほとんど使わない一方で、その存在はカエサルの『ガリア戦記』など多くの歴史記述の中で他称として用いられて来た。この民族についての研究は15世紀頃から活発になるが、民族起源論や言語学としてのケルト語研究などが主流であり、当時は「ケルト」とは西ヨーロッパの先史時代という概念で捉えられていた。これらは19世紀に考古学が確立し、遺跡調査や人類学的分析などを通じ、ケルト人とは石器・青銅器時代人、ガリア人は鉄器時代人という大きな区別のもとケルト文化圏という概念に変化した[34]。
中世ヨーロッパ全般の歴史認識はキリスト教的歴史観である普遍史が支配しており、天地創造とアダムとイヴ誕生以来の歴史は聖書に記述されており、いわゆる「先史」の概念は存在しなかった[35]。大航海時代が到来し地球規模の地理および民族の知識が蓄積され、文字を持たない人間社会の存在が知られると、その位置づけについて考察が及んだ。この中に「未開の人類」を想定した例がコンドルセの『人間精神進歩史』(1793年-1794年)である。彼は、文字を持たない人間について、1)群団を作った状態 2)遊牧民族 の2段階を想定した。ただしこれはあくまでアメリカやアフリカおよびアジア辺境に実際に住む民族を色分けした交差系列的分類であり、普遍史観を壊すようなものではなかった[36]。
先史時代的人間の社会や生活に想像を巡らした先駆的な例はジャン=ジャック・ルソーの『人間不平等起源論』(1755年)で語られる、自然の中で言語も家族も持たずに理性ではなく感情で生きる自由人に見ることができる。これとほぼ同じ考えはイマヌエル・カントも『人類史の憶測的起源』(1786年)で触れているが、どちらも「憶測でしかない」と断っている[37]。
このような先史時代概念を歴史上に組み込む役割は啓蒙思想が担った。ヴォルテールは『歴史哲学』(1765年)にて、理性を持つ以前の人類を、文字を持たない禽獣がごとき状態があったと主張した[38][2- 2]。大学の歴史学者の中からは、ドイツのゲッティンゲン大学歴史学研究室からヨハン・クリストフ・ガッテラー(1727年 - 1799年)やアウグスト・ルートヴィッヒ・フォン・シュレーツァー(1753年 - 1809年)らが、普遍史観による創世紀元を否定し先史的な時代を想定した[39]。
科学面から先史時代を想定した人物にビュフォンがいる。1778年の『自然の諸時期』では、熱い火の玉から地球が生まれたという想定を基本に歴史を想定し、誕生した人類は地震や噴火などの激動する自然や、肉食動物に捕食される危険の中で生き残るための工夫を重ねて技術を発展させたという説を唱えた。その一例が、当時雷がつくると考えられていた石斧であり、これは人類が石を尖らせて作ったものと述べた[40]。
さらに、積み重なった考古学的発掘品の整理をするためにコペンハーゲン博物館のクリスチャン・トムセンが『北方古代文化研究入門』(1836年)にて三時代法の古代の歴史を区分した[41]。生物学界からはチャールズ・ダーウィンの『種の起源』(1859年)が人間を含む生物の進化段階を述べ、それを裏付ける化石人骨の発見が続いた[42]。このような数々の思想や発掘証拠などが積み重なり、ウィルソンやラボックらの「先史時代」という概念が一般化した。
中国には、西洋的な先史時代の概念が確立されてからも「石器時代が無かった」と長く考えられていた。これは、中国人は文化的に青銅器や玉(ヒスイ)には興味を持つが石器には関心を払うことが無かった点や、自分たちの祖先が石器を使うような野蛮人ではなかったという中華思想的文明観があったものと陳舜臣は述べている[43]。これは中国国内だけの考えではなく、フランスの東洋学者ラクペリは、1894年に論文『中国古代文明西洋起源説』(Western Origin of the Early Chinese Civilisation) にて、中国人は文明を持った段階で西方(バビロニア)から民族移動して来たという説を唱え、アメリカのベルトルト・ラウファーも同様に、中国には石器時代は無かったと考えた[44]。
1920年前後、地質調査のために招聘されていたスウェーデンのユハン・アンデショーンは、石炭の採掘地である周口店周辺を調査中に発掘した化石の中に人類の特徴を備えた歯を見つけ、さらに詳しい調査を行った末の1929年に完全な頭骨を発見した。これが北京原人であり、中国にも先史時代があったことが判明した[45]。その後も石器時代の各段階の遺跡が続々と発見され、新石器時代から有史時代までを繋ぐ仰韶文化、龍山文化などの全容が解明された[46]。
日本の先史時代に対する科学的研究は、大森貝塚を発見・調査したエドワード・S・モース(1877年・明治10年来日)に始まる[47][48]。1879年(明治12年)には調査結果が纏められた『大森貝塚』に加え、ハインリヒ・フォン・シーボルトが『考古説略』で考古学手法を解説するとともに、北海道から九州までの貝塚や古墳を調査し、日本考古学の論文を発表したことに始まる[48]。日本の先史時代は、旧石器時代から始まり、弥生時代から古墳時代にかけて終焉したものと置かれる[1]。
日本の旧石器時代は浜田耕作らが発掘作業を続けて考古学的証拠を探し続けたが、第二次世界大戦後の1949年になってやっと岩宿遺跡が見つかり、その存在が確認された[44]。
古典的な先史時代のイメージでは、狩猟採集に頼った不安定な食糧調達手段しか持ち得ない人類は常に飢餓の危機に晒され、そのため生活領域も人口も制限される状態(成長の限界)が長く続いていたと考えられた。これを転回させた出来事が農耕の開始であり、トマス・ロバート・マルサス(『人口論』)やルイス・ヘンリー・モーガン(「文化進化説」)やヴィア・ゴードン・チャイルド(「新石器革命」)などは、農耕という技術革新が人口増加を吸収する環境を実現し、これがさらなる文化の変革を生んだという説を唱えた[20]。
この、ひとつの定説に対する疑問が1960年代から提唱され始めた。現代に生きる狩猟採集民族を観察した結果から、その生活は必ずしも厳しいものではなく、また農耕という手段を持たないわけではないという報告がなされた。また考古学的調査から、先史時代における狩猟社会と農耕社会の比較において、生存率や栄養状態などはむしろ定住を必要とする農耕社会の方が劣り、必ずとも後者の社会を選択する必然性にも疑問が挟まれ、むしろ更新世末期の気候変動など外的要因によって豊かな狩猟社会が一時的に不安定な状態に陥り、避難的に穀類採取へ向かった結果が農耕発生に繋がったという考えもある[20]。
これには反論もあり、寒冷期と農耕の発生時期が合わない点や、気候変動の影響は地域的であり、また容易に回復することなどが挙げられている。M.コーエンはこれらを指摘した上で、狩猟社会においても緩やかに増加した人口が臨界点に達し、それまで食糧と認識されなかった小さな獲物や木の実などを食べるように食域拡大が起こり、さらなる人口増加がついには味覚に劣り大きな労力を投入しなければならない穀類採取そして農耕へ展開したと主張した[20]。
以下にあるすべての年代表記は、人類学、考古学、遺伝学、地質学や言語学から推測されたものである。そのため、最新の研究によって変更される場合がある。
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