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南北朝時代の京都の刀工 ウィキペディアから
初代 信国(しょだい のぶくに、生没年不詳(応安2年(1369年)没か)、命日5月14日追号實山一峯[1])は、南北朝時代の山城国(京都)の刀工で了戒(正応3年(1290年) - 正和3年(1314年)の在銘刀)の弟子[2]。来-了戒様式に加え、長谷部国重とともに山城国に相州伝を残す。大進房様式の梵字・刀身彫は行光-正宗-貞宗から信国にも継承される[3]。 信国派の祖。新藤氏[4][5]か。
在世中の文書は未出で文明15年(1483年)頃の『能阿弥本銘尽』[6]に「信国 五条坊門堀河ニ住ス 今ニ信国ト打 建武(1334年-1335年)ノ比ヨリ二三代イツレモ信国ト打」と記されるが建武銘は現存せず、通説は「延文三年(1358年)十二月日」(短刀)[7]頃から貞治五年(1366年)十月(短刀、1941年重要文化財指定[8])頃までとし、建武説を要検討としている([9])。
筑前初代信国吉貞が慶長6年(1601年)に記した注2[2]には、「元応(1319年-1320年)頃(中略)帝ヨリ勅勘有(中略)末世ニ名ヲ留メント了戒手ニ付キ鍛冶執行数十年(中略)以後京五條坊門ニ住ミ、初テ信國ト打」と記されており、能阿弥本どおり建武信国もあり得る。 享保4年(1719年)、徳川吉宗の「享保諸国鍛冶御改」で信国重包が藩へ届出た「信国系図」[10]に「初代信国 延文年中五条坊門ニ住ス 元来来国行伝ヲ受後鎌倉貞宗伝ヲ受初テ信国ト打」と記され、また、信国吉貞と別系図の注1[1]にも「国吉-国行-国俊-来国俊-了戒-国久-信国 長谷部式部丞京五条坊門住ス延文比鎌倉貞宗門入テ伝授」と記される。 了戒との関係は諸説あり『長享本銘尽』では以下のとおり[11]。
信久-信国┬信定 └定国 後ニ信国ト打口伝在之
了戒┬了久信-信久┬信国祖父─信国親┬信国孫┬信光 └国久 └信国源五郎 └了一 └定国
貞宗との関係は慶長16年(1611年)頃筆『古今銘尽』に「鎌倉貞宗老後ノ時鍛冶稽古す延文ノ比 此作信久子と云相違也国久子也(中略)右ノ一類系図にくわしく見えたり」[13]と記される。
来・了戒様式の直刃と正宗・貞宗様式の沸出来で湾れ刃文に金筋、砂流し、大進房様式の梵字・刀身彫、茎先は栗尻を特徴とする。 没後200年ほど経った永禄元年(1558年)の『三好下野入道口伝』に「正宗など似せたる多し」[14]と誤伝されるほどである。
初代とされる作は以下の通り。
「源左衛門尉」(応永頃)の源を本姓と見るか諸説がある。注2には「元応頃帝ニ源氏大夫ト云公家有リ(中略)」[2]とあるが、四代信国(豊前初代)から源姓[1][2][10]を後花園天皇より賜る[20]とも記される。
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