寺岡修によって、三代目山口組系二代目細田組の傘下にて結成される。なお、寺岡はこの後二代目細田組若頭補佐に就任している。
- 1983年(昭和58年)
- 7月、二代目細田組が解散すると、寺岡が同じ山口組系列の西脇組に舎弟として移籍し、準じて俠友会は西脇組傘下となる。
- 1992年(平成4年)
- 2月、五代目山口組の二次団体(直系団体)に昇格し、寺岡は山口組組長秘書に就任。
- 2005年(平成17年)
- 7月、山口組が六代目体制に移行すると、寺岡は山口組の執行部(最高幹部)にあたる若頭補佐に就任。
- 2012年(平成24年)
- 11月、寺岡は体調不良を理由とし、若頭補佐を退任し舎弟に就任。
- 2015年(平成27年)
- 8月26日、寺岡は俠友会を率いて山健組組長・井上邦雄や宅見組組長・入江禎らと共に六代目山口組を離脱。
- 同月27日、前日に離脱した13団体で新団体・神戸山口組を結成し[1]、寺岡は神戸山口組若頭に就任[2][3]。
- 10月22日、兵庫県警は、電磁的公正証書原本不実記録・同供用の容疑で、寺岡を逮捕した[2][3]。
- 11月11日、明石区検は、電磁的公正証書原本不実記録・同供用罪で、寺岡を略式起訴した[4][5]。
- 2022年(令和4年)
- 8月22日、寺岡は俠友会を率いて、同じく神戸山口組最高幹部である徳誠会会長・大瀧一門と共に神戸山口組を脱退し、独立する。なお、先に脱退した池田組と異なり神戸山口組や絆會とは距離を置いた。
- 12月20日、寺岡は神奈川県内の稲川会の稲川会館を訪問。同会会長である内堀和也会長の仲裁のもと、六代目山口組若頭である高山清司に謝罪を入れ、引退を報告。その後、兵庫県警察には侠友会の解散届が出された[6]。