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佐藤 儀一(さとう ぎいち、1899年(明治32年)6月13日 - 1967年(昭和42年)7月2日)は、広島県出身のゴルファー、ゴルフ場設計者。
佐藤儀一は、1899年(明治32年)6月13日、広島県福山市に生まれ、16歳でハワイに渡り、イオラニハイスクール卒業後、カリフォルニア大学美術科で学んだ[1]。1930年(昭和5年)、大学生の時、プロのジミー・ダンカンに誘われてゴルフを始めた[1]。
1931年(昭和6年)、サンフランシスコ市ゴルフ選手権で2位になった[1]。1932年(昭和7年)、サンフランシスコ市ゴルフ選手権で優勝、多くの競技大会に参加し、全米パブリックリンク選手権に優勝した[1]。また、全米ゴールドメダル選手権4連覇など活躍し、100以上のアマチュアタイトルを獲得した[1]。
サンフランシスコで貿易会社に勤めたが、アメリカでの日本の海外遠征にも浅見緑蔵、安田幸吉、宮本留吉とともに参加している[1]。1934年(昭和9年)、帰国し、1935年(昭和10年)、関西アマチュア選手権に優勝、1936年(昭和11年)から1938年(昭和13年)、日本アマチュア選手権大会に3連覇、1941年(昭和16年)、優勝と合計4回優勝した[1]。関西アマアマチュア選手権は、1948年(昭和23年)から1950年(昭和25年)、3連覇を含む計8回の優勝を果たした[1]。
「廣野ゴルフ倶楽部」のメンバーで、17年連続クラブチャンピオンになっている[1]。その後、1955年(昭和30年)から、コース設計家として活動を始めたが、アメリカでゴルフを経験したこと、また、日本での競技経験したこと、などがゴルフ設計家に進んだ契機になったのだろう[1]。佐藤儀一は、山岳コースの急峻な地形や敷地の狭いコースの設計依頼が多かった[1]。第1打の落下地点は広くして、グリーン廻りでは小さな砲台グリーンへと絞っていき、深いバンカーを巧みに配し、戦略性を持つコース造りを得意とした[1]。
佐藤儀一は難易度の高いゴルフ場を数多く残している。2グリーン全盛においても1グリーンが基本デザインであり、メンバーであった廣野ゴルフ倶楽部のアリソンバンカーを模した深いバンカーも特徴である[1]。設計を行ったコースは西日本を中心に25コースの実績がある[1]。
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