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江戸幕府の職制のひとつ ウィキペディアから
佐渡奉行は、関ヶ原の戦いを経て佐渡が上杉氏から幕府の支配下となった慶長6年(1601年)に設置された。当初は佐渡代官と呼ばれており、正式に佐渡奉行と名乗ったのは、元和4年(1618年)着任の鎮目惟明、竹村嘉理の代からと考えられている[1]。一時期は、荻原重秀のように勘定奉行を兼任した者もいた。正徳2年(1712年)以降は、定員が2名となり、1名が現地佐渡に在勤し、もう1名は江戸に詰めた。奉行は、佐渡在勤時は単身赴任であった。
老中支配の布衣役で、役高は1000石。ほかに役料1500俵、100人扶持が支給された。江戸城中での殿中席は芙蓉の間。慶応3年(1867年)には禄高にかかわらず3000両の役金が支給された。
佐渡奉行は佐渡一国の行政、裁判を管轄したほか、長安期に開発された佐渡金山をはじめとする金銀山を支配した。加えて佐渡の海上警衛、年貢の取立を役務とし、江戸時代後期になり、外国船が日本近海に出現するようになると外国船の監視も任務に加わった。
配下には組頭2人、広間役7・8人。以下、定役、並役、使役、同心(70人)、牢守、水主、与力(30騎)など300人いた。
陣屋は当初は鶴子に設置されていたが、大久保長安のころに相川(現在の新潟県佐渡市相川広間町)に移転され、佐渡奉行所(相川陣屋、国の史跡「佐渡金山遺跡」の一部)となる。また、島内5(後に4)か所に代官所を設置した。
慶応4年(1868年)に廃止となった。
初期(佐渡代官)
前期(佐渡奉行)
中期
中期
後期
幕末
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