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江戸幕府の旗本 ウィキペディアから
夏目 信政(なつめ のぶまさ、? - 安永2年6月12日(1773年))は、江戸幕府の旗本。通称は久之丞、藤四郎。母は遠藤七左衛門の娘で、妻は藤方主膳重堯の娘[1]。
木村弥七郎恒忠の三男として生まれる。後に夏目信氏の養子となり、享保17年(1732年)8月5日に家督を継ぐ。騎射や流鏑馬などの射手として伺候し、時服や黄金などを賜る[1]。
元文元年(1736年)4月27日、書院番の番士となる。放鷹に供奉した際に、鳥を射落として時服を賜る[1]。
延享3年(1746年)8月3日、小納戸に就任。同年12月18日、布衣の着用を許される[1]。
宝暦10年(1760年)4月1日、江戸城西丸勤めとなり、同年5月13日より二の丸に勤仕する[1]。
翌11年(1761年)8月4日、徳川家重が薨去したことに伴い寄合席となる。同年9月6日、小納戸に再任する。同年12月15日、腰物奉行に就任。同12年(1762年)12月28日、目付となる[1]。
明和2年(1765年)5月29日、日光山で東照宮150回目の法会に携わり当地に赴いた褒美として時服2領を賜る。同年7月28日、佐渡奉行になる[1]。
同6年(1769年)9月24日、普請奉行に就任。同年12月18日、従五位下となり和泉守を称する[1]。
同7年(1770年)6月17日、長崎奉行に就任し、蔵米50俵を加増される[1][2]。
安永2年6月12日、赴任先の長崎にて死去。享年62。法名は日貞。同地の本蓮寺に葬られる[1][3]。夏目の死は、オランダ商館長の日記には、毒殺の疑いがあると書かれている[4]。
夏目の日記として『夏目和泉守様御在勤日記』が遺されている。長崎歴史文化博物館に所蔵されており、1行約20文字、1頁34行程度で全54頁。冒頭には「安永二年七月十四日 夏目和泉守様御在勤」と書かれている。『長崎奉行遠山景晋日記』の編者の1人・戸森麻衣子によれば、「御用部屋で書き継がれた日記原本ではなく、御用部屋日記を抜粋して写したもの」と考えられている[5]。
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