Loading AI tools
日本のプロ野球選手、コーチ (1953-) ウィキペディアから
佐々木 信行(ささき のぶゆき、1953年5月2日 - )は、宮城県本吉郡津山町(現:登米市)[1]出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者。
佐沼高校から一般企業への就職が内定していたが、一転して1971年のドラフト10位でロッテオリオンズに入団[1]。弘田澄男・成重春生・倉持明と同期で、1979年にはシーズン序盤の6試合に先発マスクを被るが、当時の主力捕手である高橋博士・土肥健二の壁は破れなかった。1980年以降は一軍出場もなくなり、1982年限りで現役を引退[1]。
引退後もオリオンズ(川崎)→マリーンズ(千葉)とロッテ一筋で、現役時代から並行して行ってきたブルペン捕手や二軍コーチ補佐(1987年 - 1990年)、二軍コーチ(1991年)、一軍ブルペンコーチ(1992年, 1999年 - 2000年)、二軍バッテリー兼育成コーチ(1993年、二軍バッテリー育成担当コーチ(1994年)、一軍バッテリーコーチ補佐(1996年)、二軍総合コーチ(2001年)、一軍バッテリーコーチ(1998年途中 - 2002年)、二軍監督(2003年)を歴任[1]。
現場を離れて2年後の2005年からは東北楽天ゴールデンイーグルスの誕生を期に、地元・仙台のTBCラジオから解説者として迎えられた。選手としてよりも裏方としてチームを支える期間が長かったため、チームの内情や選手の心情にことに詳しい。
解説業と並行して、青葉区国分町で居酒屋「野球茶屋 暖風(ダンプ)」を経営していたほか、2014年11月からは若林区で「暖風はり灸接骨院」を経営していた。
2015年に宮城県仙台第一高等学校と仙台六大学リーグ・東北工業大学臨時コーチに就任し、2017年2月には東北工業大学ヘッドコーチに就任[2]。2018年までは解説業と大学での指導を並行して行ってきたが、規定によりベンチ入りが認められなかったため、この年限りで解説業を辞め、2019年からはコーチ専業となった[3]。
年 度 | 捕手 | ||||
---|---|---|---|---|---|
試合 | 企図数 | 許盗塁 | 盗塁刺 | 阻止率 | |
1974 | 2 | 0 | 0 | 0 | - |
1976 | 3 | 5 | 4 | 1 | .200 |
1978 | 4 | 4 | 4 | 0 | .000 |
1979 | 22 | 20 | 12 | 8 | .400 |
通算 | 31 | 29 | 20 | 9 | .310 |
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.