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伊東 長久(いとう ながひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。赤母衣衆の一人。備中伊東氏岡田藩主家の祖。諱は初め祐之(すけゆき)[3]、『寛政譜』では祐久(すけひさ)[6]で、後に織田信長より偏諱を賜って長久に改める。通称は七蔵とも清蔵ともいい、七蔵と清蔵は別人との説もあるが、谷口克広は同一人物としている[3]。
若狭守の子[1]で武兵衛は兄。一族はもともと相模国の出身だが、祖父の長時の頃に尾張岩倉に移住し、祐之はかなり早くに織田信長に仕えた。堀田左内・城戸少左衛門と共に「鑓三本」に数えられた槍の名手[7]。
天文21年(1552年)、尾張三本木村(萱津の戦い)では、兜をつける隙きも無く編笠をかぶって奮戦したことで、信長より「編笠清蔵」の異名で呼ばれたと伝わる[8][1]。
永禄年間に選抜された信長の母衣衆では赤母衣衆に選抜された[3]。
元亀元年(1570年)の小谷城攻めで活躍し、信長から一字拝領を受けて長久と改めた[9]。
天正元年(1573年)8月からの小谷城の戦いの終盤には、羽柴秀吉の配下として参戦[1]。この戦闘では刀、脇差などを紛失しながらも無刀で三人を討ったという[8]。その後も羽柴秀吉に従い、同年9月、秀吉の腰母衣衆に選ばれ、旗奉行ともなる[8][1]。
天正12年(1584年)の小牧の戦いに従軍した[10]。秀吉本陣の備えとして佐久間忠兵衛、真野助宗、池田与左衛門、速水守久、佐藤主計頭、尼子六郎左衛門と共に小姓組七手の合計4,000を率いた[11]。
天正13年(1585年)8月、佐々成政に対する越中征伐に従軍したが、加賀国金沢城で病死したという[8][12]。死地は金沢ではなく小松ともいう[1]。享年53[1]。
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