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日本のノンフィクション作家 ウィキペディアから
伊佐 千尋(いさ ちひろ、1929年6月27日 - 2018年2月3日[1])は、日本のノンフィクション作家。
実父はアメリカ合衆国で活動した画家・絵本作家の八島太郎。俳優マコ岩松は異母弟、女優八島桃(本名:岩松桃子[2])は異母妹。
現在の東京都に生まれる。母の伊佐正子(旧姓:仁科)は、山梨県甲府市の士族の家系に生まれ、実家は資産家だった[3]。1928年夏頃に、当時「岩松淳」を名乗っていた八島太郎が東京から甲府を訪れた際に出会い、後を追う形で上京、父の持ち家に住みながら交際した[3]。しかし、翌年4月の四・一六事件の際に、プロレタリア芸術運動にかかわっていた太郎の家が捜索を受けて正子も拘留される[3][4]。そのあと正子は太郎と別れる[3][4]。その経緯について八島太郎は警察に検挙されたりするのが気の毒だったからと後年述べ、千尋は正子の父が別れさせたと宇佐美承に話したという[4]。千尋が出生したのはそのあとだった[3][4]。一方太郎は正子と別れた後に八島光と結婚、運動を続けたが逮捕、釈放という経歴をたどり、1939年に光とともに渡米した[5]。
その後正子は、沖縄県出身で東京医学専門学校(現:東京医科大学)を卒業した病理学者の伊佐善雄と結婚する[6][4]。善雄は千尋が小学3年生の時に富山県の要請を受けてイタイイタイ病の研究のため一家とともに移住、富山県立診療所長も務め、県内で6回も転任して千尋も転校を重ねたという[6]。小学4年生の3学期(=1940年1月 - 3月)に再度東京に戻った[6]。1941年、善雄は奉天市の南満州鉄道病院で10か月の単身赴任をしたのち、沖縄県の普天間病院に転勤となり、一家で沖縄に移住する[6]。
沖縄では沖縄県立第二中学校(現・沖縄県立那覇高等学校)に進学し、2年生の時に陸軍幼年学校に合格したものの、自宅に憲兵が訪問して両親と話し合って去った後に、善雄から「入学しなくてよいことになった」と告げられた[6]。千尋は漏れ聞こえた両親と憲兵の会話の中に「治安維持法」や「プロレタリア美術家同盟」「東京拘置所」といった言葉が出たことが頭に残り、善雄が実父ではないかもしれないという思いを初めて抱いたという[6]。日本の戦局が悪化した頃、善雄は正子と千尋に東京に戻ることを勧め、二人は甲府に疎開した[4][6]。善雄は「後で行く」と話していたが、叶うことなく軍医として招集された沖縄戦で戦死する[4][6]。
浦和高等学校 (旧制)に進学したが1年で中退した[7]。これは母と弟を養う必要から働くためだったという[8]。
1946年、義父の安否を確かめにアメリカ施政権下の沖縄へ渡島、1949年まで本土へ帰る許可が下りず、その間CID(犯罪調査隊)・CIC(民間諜報隊)で翻通訳にあたる[9]。1950年頃、アメリカに住む八島太郎から(千尋の居所を調べた上で)、アメリカ留学を勧める手紙が届いたが、千尋は戦争に反対しながら沖縄に残って戦死した伊佐善雄こそが自分の父であり、運動に挫折して渡米した太郎を父と認めたくないという拒絶する返事を送った[8]。
1951年に横浜で貿易会社を興し、名古屋、沖縄に支店を設ける[10]。1964年、在住中、現地人青年4人による米兵殺傷事件の陪審員となり、陪審は致死罪について無罪の評決をした。沖縄返還後の1977年、伊佐はノンフィクション『逆転』でこれを一種の冤罪事件として描き、1978年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞、これを機に作家に転じた。
1978年、同作はNHK総合テレビで『ドキュメンタリードラマ「逆転~アメリカ支配下 沖縄の陪審裁判」』としてドラマ化され[11]、千尋も自身の役で出演したが、[要出典]青年のうち一人から、実名で描かれ前科を暴かれたとしてプライバシー侵害で提訴され、敗れた。現在の刊本は仮名になっている(ノンフィクション「逆転」事件)。
千尋が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したニュースは、八島太郎をおおいに喜ばせるとともに、「かの女(引用者注:正子)は、ぼくが考えていたより、ずっとすぐれた女性だったんだな、ぼくは負けた、とおもったよ。千尋を育ててくれた伊佐氏には感謝のことばもないよ。」という感慨を抱いたという[4][12]。1979年11月24日にロサンゼルスのホテルニューオータニで開かれた八島太郎の著作出版記念祝賀会に千尋は出席し、初めて実父と対面した[12][13]。祝賀会の前に対面したとき、太郎は涙を流したという[12][13]。祝賀会で千尋は講演をおこない、出自には触れずに日米と沖縄の関係について日本語と英語で話した[13][12]。この出席は異母弟のマコ岩松が前年沖縄に来訪して「おやじももう年だから会ってやってくれ」と依頼して実現したものだった[13]。千尋は翌年雑誌『潮』の3月号に八島太郎との面会記を寄稿し、その中で「父は主義の人ではなく、もっと自由人だったのではなかろうか。ただ、画をかきたかったのだ。その邪魔をする人間と国家権力に怒りをおぼえ、反抗しただけのことだと思う。(中略)僕が好まないのと同じく、父もまた"反戦画家"などと呼ばれるのをきらっていたのではないか」と記した[13]。
1982年、「陪審裁判を考える会」を発足、陪審制度の導入を求めていた。死刑廃止論者でもあった。ゴルフに関する著書、翻訳も多い。
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