乾雅人 (演出家)
日本の演出家、放送作家、プロデューサー ウィキペディアから
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日本の演出家、放送作家、プロデューサー ウィキペディアから
乾 雅人(いぬい まさと、1964年10月10日 - )は、日本の演出家、放送作家、プロデューサー。TBS『SASUKE』の総合演出。北海道釧路市生まれ。岐阜県出身。
1964年10月10日、北海道釧路市生まれ。父親の転勤で転々としたのち、中学・高校を岐阜県で過ごす。高校時代に進路相談で教師から「お前にテレビディレクターの才能なんか無い。公務員とか安定した職業が1番いいんだ」と言われたが、映像関係の仕事を目指し、高校卒業後に立教大学文学部に進学し上京。大学2年の時にテレビ朝日でアルバイトを開始し、3年の時に大学を中退後、自動車メーカーの営業所に中途入社が決まっていたが、東京のテレビ局から「ウチに来ないか」と誘いがあり、フリーランスのアシスタントディレクターとしてテレビの世界に入り、『なうNOWスタジオ』『象印クイズ ヒントでピント』(テレビ朝日)、オリンピック中継などを担当。その後、『クイズ100人に聞きました』(TBS)などを手がけ、『筋肉番付』からTBSスポーツ局の番組を担当。『SASUKE』『K-1』『DOORS』などを手がけ、『世界卓球』の総合演出を担当[1]。
2004年、制作会社フォルコムを設立し、代表取締役社長を務める。
2012年から『SASUKE』の総合演出を務める。
2024年7月、マギー(ジョビジョバ)と菅剛史と3人でYouTubeラジオ「小さいおっさんの会」を開設した[動画 1][注 1]。
SASUKEの発端は、1995年からTBSで放送されていた『筋肉番付』のコーナーであったハンドウォーク(逆立ちで障害物を越える企画)の視聴率がよく、当時プロデューサーだった樋口潮がそれを越える企画を求め、「忍者みたいなのを作っておいてよ。半年後に撮るから」と言われた[2]が、当時はアトラクション番組は『風雲たけし城』くらいしか無く、企画の構成をどこから着手していいのか分からなかったため、TBSの大御所の美術プロデューサーに会い、個々のエリアを作る前に、全体の世界観を固めていくことから始まった。
STAGEを「塊」と考え、1つ目は遺跡のある草原を駆ける、2つ目の塊は化学工場の内部に潜入、3つ目の塊はぶら下がらないと落ちる奈落、最後を綱登りのタワーとし、工場の内部も奈落もクリアした者がロケットに乗り込んでどこかに飛んでいくというコンセプトの下、世界観を創造していった[3]。
当時『筋肉番付』を一緒に担当していた放送作家たちと考えていた。作家に「新しいエリアを考えてよ」と募集し、放送作家がラフスケッチから図面を書き出して製作しテストする。1st STAGEのそり立つ壁は東京大学理工学部出身のADが計算して、高さや深さを割り出して図面を描き出し、それを基にセットを製作してテストをしていた。テストは日本体育大学の学生にやってもらっていたが、誰もクリア出来ずにいたところ、図面を描いていたADが軽くクリアしたため、採用に至ったという[4]。
2022年に9年ぶりに復活したSASUKE予選会の種目は、全て乾1人で考えた[動画 2]。2022年の第2種目で採用した「地獄の持久走」は、かつて乾がADとして『スポーツマンNo.1決定戦』を村口太郎(現:SASUKEプロデューサー)と担当していた時に、TAIL IMPOSSIBLE(400m×4レース)のシミュレーションで、睡眠不足のADが走り続けて倒れた経緯からモチーフにした競技。
番組では単に出場者がエリアに挑戦するだけでなく、それぞれの出場者たちの人間模様を描く構成となっているが、それの元となったのは山田勝己だという。SASUKEにのめり込むあまり仕事をリストラされ無職となり、そり立つ壁やスパイダーウォークのエリアを自宅に再現し、仕事に費やしていた時間をSASUKEのトレーニングに充てていた[5]。
1999年から山田を取材していく中で、3rd STAGEの名物エリアである「クリフハンガー」は山田の住む兵庫県へ練習風景を撮影しに行った際、トレーニングジムのドアの外枠に掴まって懸垂していたため、こんな細い突起で懸垂できるなら、これを横移動できたら面白いと思い製作したため、クリフハンガーの元となったのは山田である。
秋山はレスリングで五輪を目指して自衛隊に入隊していたが、先天性の弱視のため夢を断念。その後毛ガニ漁師であった父親の後継ぎを考えるも、またも弱視の影響で船舶免許を取得できずに断念。乾が秋山と出会ったのは北海道高等盲学校(現:北海道札幌視覚支援学校)で鍼灸師の資格取得に向けて勉強していた時期であった。秋山は1998年の第2回大会からSASUKEに挑戦していたが、2nd STAGE以降の挑戦は日没後の収録で、周囲が薄暗くなると、エリアがほとんど見えなくなってしまうハンデがあり、乾から「もう辞めたらどうか」と諭したところ、「ハンディキャップがあることを言い訳にしたくないからやめません」との返答があり、これがある種人間の生き様だと乾は感じたという[6]。
1999年の第4回大会で、秋山が史上初の完全制覇を成し遂げた際、それまで公表していなかった弱視のことを番組内で触れていいか打診したところ、本人から「ハンデを背負っている風にみられるので言いたくない」と断られた。だが、「ハンデの無い者たちが脱落していったSASUKEを攻略したことはとても素晴らしい」と乾が説得し、放送に至った[7]。
秋山は2012年の第28回大会を最後に引退していたが、2022年の第40回大会を手掛けるにあたって、記念大会で歴代の完全制覇者を並べたいと思い、前の大会の収録後に乾から秋山に電話し「お前来年出るぞ。1年間(トレーニング)やっとけよ」と宣告し[動画 3]、1年後の大会の収録に秋山は、現役当時と変わらぬ身体つきで復帰した。
ケインはSASUKEに第1回から出場し、当時は『スポーツマンNo.1決定戦』(TBS)のトレーニングに取り組んでいたため、SASUKEに特化したトレーニングはしていなかった。それでも第1・4・6回と出場した3大会は連続で3rd STAGEまで進出していた。しかし2001年の第7回大会で初めて2nd STAGEでリタイアし、競技後ケインは乾に「FINAL進出するために『SASUKE』のトレーニングを始めるから、次のスポーツマンNo.1(決定戦)は捨ててもいいか?」と言い放った[注 3]。結果、スポーツマンでは照英が総合No.1に輝いたが、SASUKEでは第8回大会でFINAL STAGEに進出し、以降はハリウッド挑戦のため緑山を後にしていたが、第40回記念大会で21年ぶりに復活し1st STAGEをクリアした。
台風上陸により収録の中断と再開が相次いだ第8回大会のFINAL STAGEは土砂降りの中行われ、スパイダークライム挑戦時にケインが履いていた靴では滑るため、急遽深夜2時に日体大生が持っていた陸上競技用のスパイクを借りて、FINALに臨んでいた。
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