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久留米空襲

日本本土空襲の1つ ウィキペディアから

久留米空襲
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久留米空襲(くるめくうしゅう、久留米大空襲の表記もある[1][2])は、第二次世界大戦中の1945年昭和20年)8月に福岡県久留米市を襲った空襲。狭義では、8月11日午前10時20分ごろに襲った空襲を指す[3]

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終戦直後にデパート旭屋(後の久留米井筒屋、現・久留米シティプラザ)から撮影された六ツ門交差点(1945年10月25日)
中央の建物は住友銀行(現・三井住友銀行)久留米支店。奥の見切れている黒い建物が久留米市役所
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8月1日に散布された、各都市への空襲を予告する伝単。左下に「久留米」の名前がある。伝単の裏面には、書かれた都市の「若干」を爆撃するという警告が書かれている。

空襲の概要

要約
視点

空襲の背景

大牟田市大刀洗陸軍飛行場福岡市が空襲を受ける中、筑後地方の主要都市であり、日本タイヤ(現・ブリヂストン)や日本ゴム(現・アサヒシューズ)、日華護謨工業(現・ムーンスター)といったゴム製品・皮革製品の生産拠点だった久留米市は、1945年7月になっても空襲を受けなかった[4]。しかし、8月5日頃には久留米上空にも偵察機が飛来するようになり、筑後川の河川敷や郊外の山中に避難する市民が続出した。そのため、久留米市防空本部は男子の夜間避難を禁じ、在宅を命じるほどだった[5]。8月7日には鹿児島本線荒木駅機銃掃射の被害に遭い、44人の死傷者があった[6][7]

7月31日から8月3日にかけて、アメリカ軍が日本各地に散布した空襲を予告する伝単にも久留米の名前が2回入ったが、この伝単で予告された一連の空襲でも、久留米市は空襲を受けなかった。

8月11日の空襲

1945年8月11日、9時20分に「敵中型6機が飯塚付近を南西進中」とのラジオ発表から空襲警報が発令され、9時50分に「敵の中型編隊が薩摩半島を北進中」、10時15分に「大型機20数機有明海上空を北進中」のラジオ発表を経て[8]、午前10時20分ごろ、沖縄から離陸した約150機ものアメリカ陸軍航空軍B-24爆撃機が日中に飛来し[5][9]、約20分間にわたり市街地を焼夷弾で空襲した[10]

同日午後1時、西部軍管区は以下のように発表した[11][12]

西部軍管区司令部発表(昭和二十年八月十一日十三時)

一、沖縄を基地とする敵戦爆連合約百五十機は十一日十時二十分頃より久留米市付近に来寇、爆弾および焼夷弾を混用投下せり
二、これがため同市内各所に火災発生せるも軍官民の敢闘により十二時二十分までに概ね鎮火せり
三、戦果ならびに被害詳細目下調査中なり

8月12日の空襲

市街地の大半が焼失した翌日の8月12日午後4時30分ごろ、「グラマン及びロツヒート型の飛行機十数機(原文ママ)」が飛来し、筑後川にかかる鹿児島本線の久留米鉄橋や日本ゴムの工場を爆撃し、小森野町や山川町を機銃掃射した。鹿児島本線が数時間不通になったのみで被害は軽微だったが、爆弾のため爆発音が大きく、市民へ与えた恐怖心が多大だった[13]

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被害

死傷者

8月11日の空襲での死者は、8月14日の調査では212名となっていた[14]が、戦後の調査では214名とされている[10][15]ほか、228人とする文献もある[5]。死因はいずれも焼死で、防空壕内で焼死していた[1]ほか、消火にあたる警防団員も警鐘を鳴らしながら絶命するほどだった[5]。炎を避けて市内の池町川に逃れた避難民は、川が煙道となったため十数人が折り重なって死亡した[5]。また、重軽傷者は176名[16]から160人[5]を数えた。

罹災

白昼の空襲だったことから、機銃掃射や「新型爆弾」への危惧で市民の大半が初期消火よりも防空壕への退避を優先した[5][17]上に、火勢が強く[5]、夏場の水不足と火災による水道管の破裂で消火活動は捗らなかった[1][17]。鎮火した午後1時ごろまでの2時間30分で被害面積は市街地のおよそ7割[16]の約1.75平方km[18]に及んだ。罹災者は2万23人[5][10]、罹災戸数は4,506戸[5][10]に達した。久留米駅や久留米ホテル[1]、久留米市公会堂[19]喜多村石油[2]が全焼したほか、日華護謨工業は本社工場の3分の1(9,900平方m)を焼失して資本金300万円を超す370万円の損害を被った[20]。一方で、久留米市役所久留米警察署などの行政の拠点や、留守第18師団歩兵第48連隊などの軍事拠点には被害が少なかったことから、戦後の復興に役立った[5][18]

不発弾

1958年(昭和33年)に久留米郵便局が道路拡張で移動する際に不発弾1発が見つかった。六ツ門町では、1979年(昭和54年)10月[21]と1981年(昭和56年)8月1日(2発)[22]、1986年(昭和61年)9月[23]に工事現場から不発弾が見つかり、陸上自衛隊によって不発弾処理が実施された。21世紀に入っても、2014年(平成26年)4月[24]と6月[25]に久留米シティプラザ建設現場で2度にわたり不発弾が見つかり、陸上自衛隊によって撤去された。

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慰霊

1952年(昭和27年)8月、小頭町公園に戦災死者慰霊碑が建立され[26][27]、毎年8月11日に慰霊祭が行われるほか、午前10時30分に市内一斉にサイレンが鳴らされる。

現存する被爆遺構・遺物

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小頭町公園にある慰霊碑「戦災死者之霊碑」
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みずほ銀行久留米支店(2024年)
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久留米にも散布されたソ連対日参戦を告げる伝単「感激の握手」

遺構

  • 住友銀行久留米支店の建物は、三井住友銀行久留米支店となった現在も、空襲当時の建物が用いられている。
  • 第一銀行久留米支店の建物も、みずほ銀行久留米支店として長らく用いられていたが、2020年令和2年)10月12日に久留米支店が移転したため、保存を願う声が挙がっている[28]
  • 城南町にある素戔嗚神社の狛犬は、空襲の際に顔面が欠けてしまい、油脂焼夷弾により一部が黒変した。現在も修復されず、欠けた面に由来が彫られている[29][30]
  • 日吉町にある粟島神社の鳥居は、垂木の部分が失われ、柱も欠けていたのを継いで復元された[30]

遺物

  • 8月11日の空襲の際、金丸国民学校(現・久留米市立金丸小学校)で焼死した男性の頭部から焼夷弾の破片が見つかった。この破片は男性の娘が所有しており、折に触れて取材されている[29]
  • 空襲の前後に久留米に散布された伝単のうち、ソ連対日参戦を告げる伝単が1枚現存する[29]
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脚注

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関連項目

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