中院通顕
1291-1344, 鎌倉時代後期の公卿、歌人。内大臣・中院通重の子。官位は正二位・内大臣。法号は如法三宝院。勅撰集『続千載和歌集』以下に10首入集 ウィキペディアから
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1291-1344, 鎌倉時代後期の公卿、歌人。内大臣・中院通重の子。官位は正二位・内大臣。法号は如法三宝院。勅撰集『続千載和歌集』以下に10首入集 ウィキペディアから
正応5年(1292年)生後僅か1年で従五位下に叙爵し、正応6年(1293年)従五位上、永仁2年(1294年)正五位下、永仁4年(1296年)従四位下、永仁5年(1297年)従四位上と陞叙され、この間に通平から通具(または通真)を経て通顕と改名している。
永仁6年(1298年)春宮権亮に任ぜられ、胤仁親王(のちの後伏見天皇)に仕える。親王が即位すると昇殿を聴され、正四位下に陞叙。永仁7年(1299年)には左近衛中将に任ぜられた。正安3年(1301年)後二条天皇の即位後も再び昇殿となり、徳治2年(1307年)に蔵人頭を務めるなど天皇に仕える一方、春宮昇殿を聴され富仁親王(のちの花園天皇)とも関係を深める。また、この間に備中権介、丹波介を経て従三位・参議となり公卿に列した。
左衛門督、検非違使別当を経て権中納言となる。延慶4年(1311年)には従二位に叙され、正和5年(1316年)に中納言に任ぜられる。また、淳和・奨学院別当に補されている。文保2年(1319年)に権大納言に任ぜられるが翌年辞任した。
元徳3年(1331年)還任し大納言に進み、春宮大夫を兼任。奨学院別当に復し、元弘2年(1331年)に内大臣に任ぜられるが翌年楊梅俊兼と共に出家して引退した。
出家後は北朝側に付き、康永2年/興国4年12月(1344年1月)薨去。享年53。『続千載和歌集』以下の勅撰和歌集に和歌が入集している。
※以下、『公卿補任』の記載に従う。
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