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鳥羽天皇第2皇女、後白河天皇の准母、賀茂斎院 ウィキペディアから
統子内親王(とうし/むねこないしんのう、大治元年7月23日(1126年8月13日) - 文治5年7月20日(1189年9月2日))は、平安時代後期の日本の皇族。後白河天皇の准母として皇后(皇后宮)となり、のち女院。崇徳朝賀茂斎院。院号は上西門院(じょうさいもんいん)。法名は金剛親・真如理。
初名は恂子。鳥羽天皇第2皇女、母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。同母兄弟に崇徳天皇、後白河天皇、覚性入道親王、禧子内親王らがいる。
大治元年(1126年)8月17日に内親王宣下があり、同年12月27日に着袴。間もなく斎院に卜定され、翌大治2年4月6日准三后に叙される。大治4年(1129年)4月19日、紫野院に入るが、長承元年(1132年)6月29日病をえたことにより退下した。
長承3年(1134年)6月16日、名を統子に改める。保元3年(1158年)2月3日、後白河天皇の准母として立后。翌保元4年2月13日に院号宣下。永暦元年(1160年)2月17日、母の待賢門院から相続していた仁和寺法金剛院で出家。寿永元年(1182年)7月8日には、没落した前摂政関白松殿基房の次男・藤原家房を猶子としている。また、壇ノ浦の戦い後、高倉上皇の皇子である守貞親王を猶子に迎えているが、これは乳母子である持明院基家が親王の乳父であったことによるとみられる[1]。
文治5年(1189年)7月20日、六条院において64歳で崩御。花園東陵に葬られた。
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