上西門院兵衛

?-1183?, 平安時代後期の歌人。待賢門院兵衛とも呼ばれる。勅撰集『金葉和歌集』以下に28首入集 ウィキペディアから

上西門院兵衛

上西門院兵衛(じょうさいもんいんのひょうえ、生年不詳 - 寿永2–3年頃(118384年頃)は、平安時代後期の女流歌人。父は村上源氏神祇伯源顕仲待賢門院兵衛(たいけんもんいんのひょうえ)、前斎院兵衛(さきのさいいんのひょうえ)、右兵衛督(うひょうえのかみ)などともいった。

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待賢門院が中興し後に上西門院も住した法金剛院

姉妹には、いずれも勅選歌人である待賢門院堀河大夫典侍[注 1]散位重通妾[注 2]がいる。

姉の堀河と共に鳥羽院中宮だった待賢門院(藤原璋子)に出仕、後にその皇女で斎院を退いた後の上西門院(統子内親王)に出仕した。1160年(永暦元年)上西門院の落飾に従い出家している。藤原実家藤原惟方西行など歌人との幅広い交流があった[1]。『金葉和歌集』以降の勅撰集、『久安百首』、西行の『山家集』などに作品を残している[1]

逸話

  • 堀河との姉妹連歌[2]が記録されている。

  油綿をさし油にしたりけるがいと香しく匂ひければ
ともし火は たき物にこそ 似たりけれ 上西門院兵衛
丁子かしらの 香や匂ふらん      待賢門院堀河

『菟玖波集』 下
  • 西行『聞書集』の、戦乱で武士が数多く死ぬことに触れた続きに、兵衛の句に西行が上句を付けている箇所がある[3]

  上西門院にて わかき殿上の人々 兵衛の局にあひ申して
  武者のことにまぎれて歌おもひいづる人なしとて
  月のころ 歌よみ 連歌つづけなんどせられけるに
  武者のこといで来たりけるつづきの連歌に
いくさを照らす ゆみはりの月
  伊勢に人のまうで来て
  かかる連歌こそ 兵衛殿の局せられたりしか
  いひすさみて つくる人なかりき
  と語りけるを聞きて
こころきる てなる氷の かげのみか

『聞書集』
だが戦乱の中、兵衛の死を聞いて、

  兵衛の局 武者のをりふしうせられにけり
  契りたまひしことありしものをと あはれにおぼえて
さきだたばしるべせよとぞ契りしに おくれて思ふあとのあはれさ
  仏舎利おはします
  我さきだたば迎へ奉れ
  とちぎられけり
亡き跡のおもきかたみにわかちおきし 名残のすゑを又つたへけり

『聞書集』
どのような経緯で兵衛が仏舎利を伝えていたのかはわからないが、それを形見にすると約束していた程なので、西行との深いつながりがうかがえる。

作品

さらに見る 歌集名, 作者名表記 ...
勅撰集
歌集名作者名表記歌数 歌集名作者名表記歌数 歌集名作者名表記歌数
後拾遺和歌集 金葉和歌集待賢門院兵衛 1 詞花和歌集
千載和歌集上西門院兵衛 9 新古今和歌集上西門院兵衛 2 新勅撰和歌集上西門院兵衛 1
続後撰和歌集上西門院兵衛 2 続古今和歌集 続拾遺和歌集上西門院兵衛 1
新後撰和歌集 玉葉和歌集兵衛
上西門院兵衛
 1
 1
続千載和歌集上西門院兵衛 3
続後拾遺和歌集上西門院兵衛 1 風雅和歌集上西門院兵衛 2 新千載和歌集上西門院兵衛 1
新拾遺和歌集兵衛
上西門院兵衛
 1
 2
新後拾遺和歌集 新続古今和歌集上西門院兵衛 1
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百首歌・歌合
名称時期作者名表記備考
西宮歌合大治3年(1128年)8月29日兵衛督君 兵衛君 兵衛督
南宮歌合大治3年(1128年)9月21日兵衛君
住吉歌合大治3年(1128年)9月28日兵衛君
右衛門督家歌合久安5年(1149年)6月28日前斎院兵衛顕仲伯女
久安百首久安6年(1150年)上西門院 兵衛
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私家集
  • 『兵衛殿の家の集』があったという[4]伝存しない。

脚注

参考文献

関連項目

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