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日本の哲学者 ウィキペディアから
三枝 博音(さいぐさ ひろと、1892年(明治25年)5月20日 - 1963年(昭和38年)11月9日)は、日本の哲学者。 思想史・科学史・技術史についての研究も多い。
広島県山県郡本地村(現・北広島町)出身。生家は浄土真宗の寺院・浄専坊。第四仏教中学(現・崇徳高等学校)を経て、東京帝国大学文学部哲学科に進む。在学中1年間の兵役体験から、社会的なものへ傾倒しマルクス主義に没頭した。
1922年大学卒業[1]後は同郷で、医学史の大家・富士川游に師事。東洋大学、立正大学、法政大学などで教職に就いた。1928年、無神論運動を起こす。1931年半年間ドイツに留学、世界観の変革に多大な影響を受けた。1932年に戸坂潤らとともに唯物論研究会の創立に参加。機関誌『唯物論研究』の初代の編集部長となる。1933年思想弾圧により1ヶ月間拘禁の難に遭い教職を辞した。この事件を機に富士川らの薦めで日本哲学思想史の本格的研究を始めた。
戦後は鎌倉大学校(後の鎌倉アカデミア)の創立に加わり、第2代校長。後に日本科学史学会会長や明治大学教授、横浜市立大学教授・学長を務めた。
1963年11月9日、帰宅中に乗車していた国鉄横須賀線の三重衝突事故(鶴見事故)に巻き込まれて死去。71歳没。
中村雄二郎は『共通感覚論』(岩波書店 1979)で、三枝や戸坂ならびに三木清、中井正一の仕事を振り返ることで、西田幾多郎の「場所の論理」を発展的に乗り越えうると評している。
蔵書は横浜市立大学学術情報センターに「三枝文庫」として収蔵された。なお墓所は鎌倉市の東慶寺に、鎌倉アカデミアの同僚高見順、三上次男の墓と共にある。
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