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ロッキー・サンタナ(Rocky Santana、本名:ビクトル・マヌエル・バルガス・アブレウ(Victor Manuel Vargas Abreu)、1955年7月26日 - )は、メキシコのプロレスラー(元覆面レスラー)。メキシコシティ出身。
父はエル・ディアブロ・ロホ、妻はネフタリ[1]。
5年間のアマレスの経験を経て、ビジャノ1号にルチャを学び、1972年9月15日にプリンシペ・ヒッピーの名で対アストゥシア戦でデビュー。1982年にエル・ブロンコらとロス・デュイアボリコス(Los Diabolicos)を結成。
1987年にトリオを解散。1991年にアメリカン・コミックのティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズのパロデューギミックのロス・トルトゥギージョス・カラテカス(Los Tortuguillos Karetekas)のトルトゥギージョ・カラテカ1号のマスクマンに転身、UWA(ユニバーサル・レスリング・アソシエーション)/LLI、EMLLなどに転戦した。しかし1992年8月9日にはLLIにてスコルピオ・ジュニアにコントラ・マッチに敗れ素顔になる[1]。1992年9月6日にUWA世界ライト級王座を奪取[2]。
1993年にはロッキー・サンタナの名でみちのくプロレスに来日[3]。3月12日の後楽園ホールにてトルトゥギージョ・ニンハでスペル・デルフィンとコントラ・マッチに敗れ素顔になる[4]、また3月23日にはデルフィンの持つにUWFスーパーウェルター級王座に挑戦したが戴冠に至らなかった[5]。
この頃、大仁田厚に風貌が似ていると話題になり、「大仁田」コールが起きたり、サンタナ自身もそれを意識したのか、大仁田が水を口に含んで吹き出すパフォーマンスを真似している。
1994年6月6日にUWA世界トリオ王座を奪取[6]。
1996年から1998年に大日本プロレスに来日[7][8][9]。なお大日本ではシャドウNo.7のリングネームも用いた。2000年5月の大阪プロレス1周年記念の大会ではニセ大仁田のリングネームで、大仁田厚本人とシングルマッチを行い[10]、2002年には元FMWの冬木弘道が設立したWEW[11]に来日、その流れで冬木軍の興行にも出場。
2005年にはDDT[12]、ZERO1[13]にニセ大仁田で来日。
またリアルジャパンプロレスに参戦するブラック・シャドーもロッキー・サンタナ説がある。
本国メキシコではインディマットのAULL(アリアンサ・ウニベルサル・デ・ルチャ・リブレ、Alianza Universal de Lucha Libre)のブッカーをしていた、現在は離れているが試合には出場している。
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